、言はゞ若冠である、何もかにもこれからだといふ感じがする。
愉快なことに奥田氏は、主家である児玉希望氏の処から置手紙をして家出したことがある「文学をやりたくなつた」のであつた。
だが再び絵の路へ戻つてきた、かうした内部的な苦悶を児玉希望氏はちやんと知つてゐて、「奥田は文学をやるなどと、道草を喰つたといふことは、今日の彼に大きな手助けとなつたのだ――」とよき理解を示してゐる、全く希望氏の言はれるやうに、今後の日本画壇は従来のやうな型ではいかない、文学との接触や、その理解はどうしても日本画家として必要である、文学好きの奥田元宋が、第二回文展で「盲女と花」で特選をとつたことはまた理由のないことではない、洋画壇では二科の島崎鶏二氏、日本画壇では奥田元宋氏はある共通なものがある、この二人は文学の臭味のない、文学的な絵画の出来る人である。
「盲女と花」のあの感[#「感」に「ママ」の注記]能性と、新しい意味での妖怪味とも言ふべき、心理的雰囲気を画面につくり出し得たといふことは、誰れでも出来る術ではないやうだ、絵画は造型美術であるからといふ理由で、テーマの上で文学と連結することを極度に軽蔑してゐる作家が多い、殊に洋画家にはそれが多いやうである、それは狭量といふものである。世間でよく「文学的な絵だ」といふが、厳密な意味では、そんな言葉がある筈がない。絵画はあくまで絵画で、事実「文学の方法」では一本の線も引けないわけだ、文学的ではない「思索的」だといふことをすぐ「文学的」だといふ風に批難してしまふからよくない、筆者は奥田元宋氏に大いに今後所謂「文学的――」と呼ばれていゝ作品を描いてほしいといふ意味で声援をしたが、仕事ぶりの粘着力と感覚的には感能的なところは、彼の大きな特長であろう、仕事に対する喰ひ下り方はまことに良いのである。一見童顔稚気充満してゐるが、その底には冷笑家らしい皮肉な処もあつて不屈な精神がみなぎつてゐる、彼が若冠にして「日高川」や「盲女と花」などの佳作を産み出したことは、若いが自己に対しての手きびしい厳格さが産みだしたものであつて決して偶然なものではないやうだ。
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新日本画の名コンビ 福田と吉岡
――『松』と『馬』に就いて――
第二回新美術人協会展の福田豊四郎氏の『松』は従来の日本画の様式に対して新しい革命的な手段を加へたといふ意味で相当に問題となつていゝ作品である。この『松』をそれでは如何に問題化するか、といふことは、これまたこの作品を問題としてとりあげる批評者側に対しての一つのメンタルテストのやうなものである。福田の『松』に対しての美術批評の各自の解釈、さうしたものの喰ひ違ひ、或は一致、その批評的現はれこそ、自分は作品以上に興味があるものだと思ふ。
あるひはこの福田の『松』や吉岡の『馬』を力作、大作といふ風な簡単な印象批評をもつて黙殺的に片づけてしまふか、さうした場合も少くないといふことは考へられる。然しながら、福田があの作品に加へた意図計画といふものは決して単純ではない。またこゝでは吉岡堅二氏の創作態度の本質とも関連して、日本画壇の福田、吉岡といふ名コンビの日本画の、新時代性確立のために払ふ作家としての精神的な内部的苦悶といふものに対して吾人は両氏の努力に対して充分に敬意を払はざるを得ない。
こゝではこの二人の仕事ぶりは俗衆批評を超越して存在するのである。この二人の人気の本質に関して露骨な言ひ方をすれば、世間には福田、吉岡よりも、絵そのものの、うまい作家はザラにゐるのである。然しながら福田、吉岡の人気の高さは、絵のうまさだけでは凌げないものがある。福田、吉岡はこの二人が年齢的にも若いといふこと、その将来性に対する世間の期待と、次には所謂日本画の新しい方向に対して、この二人は何時の場合でも正統な追求の路筋を辿ることを知つてゐるといふ意味から、揺がない世間的な独自の人気を保持してゐるのである。世間では福田、吉岡の仕事ぶりを何かハデな画壇的動きと観察してゐる向もあるが決してさうではない。事実は之に反して、福田、吉岡の仕事ぶりをみてゐると、陰鬱なほど滋味な内気なものといふことができる。両面をもつた物体に光線をあてるとして、その光りを反射的に作用する面は福田豊四郎氏であり、その光りを吸収的に作用する面は吉岡堅二氏といふことができる性格的な両面でもある。この二人位日本画の運命といふものを自覚して、その運命をともにしようとしてゐる作家は他にゐないのである。さうした自覚に立脚して仕事をしてゐるといふことが、この二人を自己の仕事を過度に前進もさせなければ、特に後退もしないといふ実力を示すのである。殊に吉岡堅二氏の『馬』は在り合せの形式的な美術論の中から批評の尺度を求めてきては、一言も批評ができる性質の作品ではない。見給へ、吉岡の、『馬』に対して世間では何を語り得てゐるか。今年の馬は、去年の馬よりも良いとか悪いとかといつた単純な批評では批評でも何でもない。馬喰的言辞といふべきだ。少くとも吉岡の作品の場合には、この作家の心理的な創作以前の問題に一通りの関心を示してからでなければ、できあがつた作品に対しては一言半句も批評的な言葉を吐けない筈である。吉岡の場合は日本画の新しい形式的確立の手段の立て方が、余りにも内省的だといつてもいゝほどに苦渋な方法を採つてゐる。吉岡の『馬』は、吉岡といふ作家が、描く対象物に対して彼は形態の破壊を目的としてゐるのか、或は形態の構成を目的としてゐるのかわからないほどの状態で描いてゐるのである。彼は破壊しようとしてゐるのか、創造しようとしてゐるのか? どつちであるかといふ疑をもつしかしとにかくそこには一つの作品が生みだされ現出してゐる。その作品の世界は非常に抽象的な不可思議な雰囲気をもつた、吉岡独特な世界を生みだしてゐる。物体を殆んど無視して描いてゐるのかと思へば、さうではなく立派に実在性を捉へてゐる。吉岡はそして物の影とも、光りとも、また量とも面ともつかない一つの新しい実在性を発見してゐる点は、充分問題となつていゝのである。大体吉岡のやうな仕事は、洋画家が、その先進性からいつても先に手をつけなければならないやうな性質の仕事なのである。それを日本画畑の吉岡氏が早くもそこに着眼しその方法の進歩性を採用したといふことは皮肉な現象でもある。これらの吉岡的な創作的苦悶は、一言にして言へば日本画的な或は日本人的な『線』に対する新しい理解が伴ふところの新時代的な苦悶のそれであろう。
一方福田豊四郎氏の場合はどうか、彼は仕事が吉岡氏よりも大まかな猪突的な冒険を企ててるやうに見受けられる、しかし決してさうではない。日本画の伝統への強い肯定に立脚した上での仕事である。表現の大まかな割に細心の変革を、蓄積的に加へてゆくといふやり方なのである。吉岡の方法は日本画の絵の具の物質性といふものに極度に喰ひ下るといふやりかたで、そこでは画面処理が究極の目的でないのに拘はらず、それに反して福田はあくまで画面処理を心掛ける。彼の『松』をみてもわかるやうに、彼は一本の直線を引くことに対しても、その直線の性質の中に、如何に封建的な要素が含まれてゐるかといふことをさへ吟味しその封建的要素の否定のために、物体を直線の上に描き添へて古い線に新しい要素を与へる。彼は殊に『曲線』といふものの日本的性質、その心理的な救ひ難い習性の表れといふものに[#「に」に「ママ」の注記]教へをよく理解してゐるから、それに対しての強い反撥を企てるのである。新しい日本画の確立とは、何も特別にテーマの中に、或は色彩の中にのみ変革の方法があるとはかぎらない。彼の場合には一本の線の動きの中からも、古い要素と、新しい要素との分析とを行はうとしてゐるのである。
事実またさうした綿密な態度であつてこそ新しい日本画の確立は為しとげられる。色だけの美しさをねらつても、そこに引かれた線が古めかしいものであつては何もならない、『松』の表現力は、ひとつにはさうした企ての下に為された、必然的な単純化として到達した新しい画境とみるべきであらう。松に投じられた光りの侵入の解釈の新しさ、樹の幹の下部を急に細く描くことによつて、量感を一気に獲得したやり方の大胆不敵な方法も近来の痛快事である。また吉岡氏の『馬』の色彩の美しさ、その美しさは通り一ぺんの素通り的な見方ではなく、すこし許り画面に向ひあつて凝視的であるときは直ちに私のいふ意味の吉岡の色彩の美しさといふものがどんなものであるかを諸君は理解するであらう。
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日本画の将来
映画の出現は、小説や劇やその他の芸術ジャンルに甚だしく不安を与へ、そのためにキノドラマといふものが現れたり、詩の方でもシネポヱムなどゝいふ、映画と他の芸術形式との結合を企てたものがでたりした。併しそれは成功したであらうか、またさうした運動が幾分でも、不安を取り除くことができたであらうか、日本画の将来の見透しも、またそれと同様なことが言へる。
殊に日本画の将来に向つて、幾分でも予言的なことを語る場合には、日本画の現在内包してゐるところのもろもろの不安や日本画の存続問題にまでも触れなければなるまい。
日本画が滅亡するか、どうかといふ不安を、あたかも映画に対する劇の不安の状態に当てはめて考へることは可能であらう。洋画に対する日本画の立場なども考へやうによつては、決して日本画の将来は楽観的とは言へない、キノドラマの場合、劇の不安を叫んだことも、劇と映画との結合を計画したことも正しかつたであらう、しかしキノドラマ論者は、現在その運動を継続してゐるとは思へない、なかに甚しいのは、さうしたことがあつたかといはんばかりに、口に[#「に」に「ママ」の注記]拭つて、空とぼけてゐるのである。
自分一個人の考へをこゝに差加へれば、当時キノドラマ支持者に対しては自分は斯ういふ考へを抱いてゐた「彼は芝居の味を知らないものゝ不安である――」と、しかも一流と言はれる演劇批評家や劇団人が、これを支持したに至つては唖然とせざるを得なかつた、一つの芸術ジャンルの将来を語り、その存廃に少しでも触れる場合には、少くとも態度としてキノドラマ論者のやうにありたくはない、何故ならキノドラマ論者の所謂「味噌」は、映画の本質、劇の本質、その何れにも不安を抱いたといふ、その中途半端的なところにある。
いまここに日本画を論じてその将来を語る場合には、自分は日本画の「本質」をあくまで支持するといふ態度を失ひたくはないと思ふ。しかしそのことと、つまり本質を支持するといふことは、日本画が存続するか、廃滅するかといふこととはまた別なのである。
映画がこれほど盛んにならうが、その発展が正統なもので、本質的なものであればこの映画の隆盛が、他の芸術ジャンルを脅やかしたり、滅ぼしたりするといふことは絶対にない、日本画も洋画も、各自その本質をのばすといふ点では少くも、一方が一方の正しさを滅ぼすといふことは考へられないのである。たゞこの間にあつて芸術的な正統性を、政治的工作に依つて歪曲されるといふことは、世間にはよくあるのである。しかしそのことはこれまた問題が別になる。
今度の院展や青龍展をみて、それを一口で悪く言つてしまふことは簡単である、多くの洋画家の日本画評はさうである。日本画壇の内部でも、前衛を自称する作家は、現在の日本画を酷評する、しかし日本画と洋画(日本での)とその何れが進歩的であるかと、いふときに、直に日本画よりも洋画であるとは軍配をあげることができない。
伝来的なものを直に古いと考へ込むことは最も危険なことである、こゝで冗々しく長いほど、わかり易く言へば、日本画家とは何ぞや――であらう『日本画家とは日本人であつて日本に昔からある日本画といふ材料を使つて伝来の方法で、日本の風物、人情を描く画家を言ふ』
次に日本における洋画家とは『日本人であつて、西洋から移入した材料を使つて、もつとも新しい方法で、
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