[#「小松均」に傍点]氏は、日本画につきまとつてゐる封建的な要素、つまり古い亡霊と闘ひながら新しい日本画を描かうとする悩みがある。
福田豊四郎[#「福田豊四郎」に傍点]氏は、日本画の中古の亡霊と闘つて新しい仕事をしようとしてゐる。中古とは、半封建性である。それと闘つてゐる。つまり画壇にブルジョア革命を起さうとしてゐる。
吉岡堅二[#「吉岡堅二」に傍点]氏は、それでは少壮な立場から直ちに新しい仕事にかゝつて――差支ないか。こゝでは伝統のない洋画とはちがふ。
吉岡氏は意外なことには『新しい亡霊』と闘はなければ新しい仕事ができない立場にある。彼は『日本画』を自覚してゐるからである。新しい日本画を主張する人は多い、そしてこれらの人々は洋画に刺激されて、どんどんと油絵のやうに絵の具を盛り上げるのである。真に日本画の伝統を生かして新しい日本画をつくることの困難さと闘ふためには、ニセものの日本画革新論者や、日本画家と吉岡氏は闘ふ必要があらう。若い日本画家が新しい方向を求めるのはいゝ。然し新しい亡霊につかれてはお終ひである。古い亡霊、中古の亡霊、新しい亡霊、この三つの日本画の亡霊と闘ひつゝ新しい仕事を進めてゆくまた困難なるものがあらう。
小松氏はその作風でみても判るやうに、『原始共産体』の自由精神を闘つてゐれば、福田氏は『ブルジョア革命』を成しとげようとしてゐる。そして吉岡氏は若い『プロレタリア革命』をやらうとしてゐる。然しこれらの日本画壇での三つの心理的革命は、同時的に行はれ一つとして欠けてはならないし、また三氏の個人的な事業ではなく、広く同志の協力の下に完成される事業だと考へる。
大日美術院展の評
北村寿一郎[#「北村寿一郎」に傍点]氏――『残響』造船所を扱つたテーマは良いが、あれほど大作をしなければならない必然性があるかどうか、もつと小さな画面にでも、対象を生かすことができよう。コンクリートの壁の質感は巧みにでゝゐた。菅沢幸司[#「菅沢幸司」に傍点]氏――『芭蕉』こゝでも大作がある。この作は大日美術院賞だが、迫力がある作風と、カスレタ描き方の魅力がある。菊沢栄一[#「菊沢栄一」に傍点]氏――『競馬場所見』『スタート』共に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画なり。石田吉次[#「石田吉次」に傍点]氏――『端午の河岸』生活的なテーマであるが、テーマの割に生活がでゝゐない。特殊なものがない。岩崎清之助[#「岩崎清之助」に傍点]氏――『港Y』革進性はある。沖中陽明[#「沖中陽明」に傍点]氏――『内海の春』悩みなし。吉永叢生[#「吉永叢生」に傍点]氏――『木兎』テーマ古し。結城素明[#「結城素明」に傍点]氏――『清湍』日本画の材料で質感の出し方と色重ねの利かしたとの最も良き見本である。常岡文亀[#「常岡文亀」に傍点]氏――『萌芽』甘さと渋さとがとけあつてゐる。是永仲一[#「是永仲一」に傍点]氏――『竜華寺の庭』怪異をねらつた作。簡略化がうまい。青木大乗[#「青木大乗」に傍点]氏『焚火』しつかりとしたデッサン、本格なり。然しいつまでも日本画はテーマの上で焚火にもあたつてもゐられまい。藤森青芸[#「藤森青芸」に傍点]氏――『渓間』日本画的雰囲気として申し分なし、渓間にはキヂがゐる風景である。自然科学者の描いたものより芸術的である。そのかはりに自然科学者よりも不真実である。長谷川勇作[#「長谷川勇作」に傍点]氏――『つゝじ垣』ユーモラスな好感をもてる作、籠の中の鶏は、すぐれた描き方であつた。この調子で全体をまとめたら新しい日本画の一タイプをつくるだらう。西村雨北[#「西村雨北」に傍点]氏――『巣』鳥の性格がよく出てゐた、描き方に類型性がないのは気持がよい。長嶺雅男[#「長嶺雅男」に傍点]氏――『蘇鉄』部分描写はいゝ。漆畑青果[#「漆畑青果」に傍点]氏――『庭の一隅』何の変哲もなし。高田美一[#「高田美一」に傍点]氏――『薫風』藤の紫の色をもつと感[#「感」に「ママ」の注記]能的に出して欲しかつた。若井善三部[#「若井善三部」に傍点][#「部」はママ]氏――『千住風景』絵の具の盛り上げは不賛成。勝木春光[#「勝木春光」に傍点]氏――『J2LU局』着物の黄と顔との対照が美しい、手が少しく※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵風。若林景光[#「若林景光」に傍点]氏――『西港の初夏』この程度の明るさは欲しいが、実業美術的になつてははじまらない。深海石山[#「深海石山」に傍点]氏――『雨後のしじま』日本画でなければやれない業である。丸橋進吾[#「丸橋進吾」に傍点]氏――『乙女たち』窓外の風景は出鱈目である。小野頴山[#「小野頴山」に傍点]氏『硫黄採る山』描写力をもつた作家である。硫黄にけぶつた屋根の色がさつぱり出てゐない。
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二科展を評す
前進性を示す諸作
何といつても二科展では中堅どころの活躍が目立つ、岡田謙三氏の大作「つどひ」は氏の平素の小品の持ち味は失はれてゐた、この作者は物質感を出す力を全く喪失してゐる。単に画面をデティルと色彩の混沌美で処理してゆく方法はこれ以上前途がないことを自覚して良い筈だ、その点伊藤継郎氏は彼は形態を探る前に、先づ色彩上でリアリティを画風として確立したために、岡田氏より仕事は地味だが一歩前進してゐる、伊藤氏の「鳩を配した裸婦」など凄涼の写実味を帯てゐる、北川民治氏の「メキシコ、タスコの祭日」其他の作品は特に驚かせるほどのものではなかつた。
その画風が庶民的でも階級的でもなく、単に人間性一般を語る作者であるといふことは、画面の人物のどの顔も類型的であるのをみても判る、多少の異国主義が北川氏に日本画家にしては珍しい作品を描かせてゐるにすぎない。帰朝後の「瀬戸工場」では氏は異国主義をふりまくわけにはいかないから、彼もまた風俗は一日画家に帰りつゝあることを証明してゐる。
二科が会友に福島金一郎氏を推したのは聡明であつた、この人の作は場中で光彩を放つてゐた、力量からみてもこの人など既に重鎮組の作家であらう、棟方寅雄、吉原治郎、石井万亀(石井氏この人の感覚的な鋭さはその辺りの偽前衛作家のやうな付け焼刃ではない)高岡徳太郎、江崎義郎、古家新(鳩舎)島崎鶏二、竹谷富二雄、梨本正太郎、森繁、松下義晴の諸氏など追求的で野心的な快ろよい制作意図を示してゐた、彫刻は中村暉氏の良きヒューマニティ、河合芳雄氏の作では女の重量感を腰のくびれで堅めた技術的洗練さ、渡辺小五郎氏の美しい線、長谷川八十氏の激しい意慾的な仕事など彫刻は相当粒揃ひであつた、今回の二科は形容してみれば平静にして前進的な佳作揃ひと言つてよい、画壇に於ける二科会の社会的立場を以て、移は単純に保守的地位に見ることをしたくない、前衛的といふ意味では独立展は二科より一歩の長があると言はれてゐる、然し画風の上を検討してみると、二科の洋画家には独立展に較べて始末に負へない日本主義者といふのが案外少ない、彫刻に渡辺義知氏の系統をひいた、国土を護れ式の傾向が若い彫刻家の作風にちらちらしてゐるが、結局渡辺氏の制作意図といふものも、制作上の精力主義からきた現れにすぎなくて必ずしも反自由主義的作風とは断定できないものがある。
藤田嗣治氏の「千人針」また同様である、この絵からは批判的なものを少しも求めることができないが藤田氏が描く千人針に何の情熱も期待も覗はれない様にこの作の様に現実もまた凡作であるといふ意味で藤田氏の作は写実性がある、藤田氏や野間仁根氏の作品は腹の底からの自由主義者の作風といふものが感じられ、熊谷守一、坂本繁二郎氏等の芸術への絶対的な奉仕者を加へて、若い出品者にとつてこの団体はさう不自由な研究場所ではないのである、その点新興団体としての独立展などは、その新興的なる理由の下にも却て封建的要素が多く、尚自由主義的傾向へ転落する危険性も多分に含まれてゐる。岡田謙三氏、島崎鶏二氏の両作風は二科に於ける両極を示すものとして、画風の上ではなくイデオロギー上の反撥期は当然来るものと見なければならないが、そこまでに至る間に両者のよきヒューマニズムの協力が二科の若い作家達を勉強させるだらう。
横井礼一氏の「月と星」は二科に擡頭した新しい癌の証明であり、当然かゝる無反省な出品は何らかの型で拒否されていゝものだらう、浪江勘次郎氏の「漁業」「蒼天」は良き日本的作家たらうとして、少しく仕事を焦りすぎた感がある、その方向には充分な同感をもつことができるが、対象の認照?認識の方法には疑問少なくない。
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文展日本画展望
東洋画の特長である静穏な美も、最近の世相でともすれば[#「ともすれば」は底本では「ともすれは」]、狂気染みた動的な雰囲気に捲き込まれてしまひさうである、混沌美を造るには日本画の絵具は余りに聡明にすぎよう、洋画家のやうに時代と一緒に混乱できないところが日本画家の苦しい立場であり、またそこに自づと新しい開拓の分野もある、文展日本画は更生幾回転の後に我々の眼前に示した、新陣容であり、収穫である、文展の組織の混乱とは別に、画人の態度は自ら別なものがあらう。
△西山英雄――『内海風景』の表現の方法には山と樹木の描き方の矛盾がある、山の図案化を樹木に適用しきれなかつた度胸の無さが目立つ、汚点のやうな雲(或は汚点か)は画面をきれいに処理する勢力が足りない。
△浜田観――『初夏の花』距離感が不足してゐた、絵の具の盛り上げの効果は、ある域に達してゐたが、写実に喰ひ下り方が足りない。
△上村松篁――は、逸性と童話味とを汲む。
△橋本明治――『浄心』は特選であつた、仏像の前の女人は古いテーマとモダニズムとの結びつきを割に成功させてゐる、女の衣服の腰の線の簡略化はうまい、線の動きに奇妙な柔らかな感触を感じさせる作家である。
△福田豊四郎――『樹氷』は線の躍動味がねらひである、鹿の立体を筆触の重ねでこれほど出すといふことは非凡である、難を云へば月の位置が不確定なことゝ、鹿の尻に加へた色が平俗的である、月明りと雪明りとの交錯が美しい。
△吉岡堅二――作者の切迫感をかんじさせる『馬』は、単純化をねらつてゐる、線の錯雑な味が有機化してゐない恨みがあるが、色彩の調和は良かつた。
△久連石雨董――『仔馬』デッサンの不確かな割に、画面をよく生かしてゐる、殊に馬の鼻ヅラの鈍角な線は、よく仔馬を語つてゐる色彩も良い意味の甘さが流れてゐる。
△小川翠村――『追はるゝ山鹿』鹿の形態をよく観察してゐる態度がみえ、三匹の鹿の形の交叉のうまさ、皮膚の実感性、など日本画の質感の出し方として上々である、但し追ふ犬が拙い。
△野口謙次郎――『焼岳』山はよし、たゞ樹の形が殆んど同じ、その類型的なのはよくない。全体的雰囲気に救ひを求めすぎた感あり。
△和高節二――黒の色彩に新味あり、牛の下部へ鶏を配置したのは成功、平和と素朴とが洗練された形式でにじみ出てゐた、女の冠り物と顔の色が少し強すぎて調和を破つてゐる。
△岡田昇――『凪』漁師の母子の生活が良く出てゐた、ただ画面が汚ない感がした、生活的な庶民性を描くこと賛成であるが、画面はあくまで美しく処理することである、海のやゝカサ/\とした潮気を含んだ画面の効果はよく出てゐた。
△不二木阿古――『将棋親旧』白の全体のまとめはうまい、人物中離れて坐つてゐる少女は少し投げ出したといふ形で親切な観方ではない。
△堂本印象――『観世音』現世の苦を語るものとしては少し象徴的すぎる、線は整理されてさすがに形の制約を知つてゐるが、叙述的な絵画の方法をとつたにしては、バラ/\な図案化がある散漫である。
△横山大観――『雲翔る』大観のものといふ先入観を入れなければ批評の出来ないやうな絵である、画庫から何時でも引出して出品できさうな凡作である。
△松元道夫――『花苑』柔らかい花弁のまとめあげ、茎もよく描いてある
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