どうしても一色にしてしまへないものがある、彼はそれを一色にする、環境には色などはない、環境をつくつてゐる、個々の具体的な物に色があるだけだ、環境とはこれらの綜合的な色の『答』へだ、この人のデッサンは見てゐて気持がよい、田舎にをくことは惜しい作家である、仕事が社会性がある(甚だ稀薄だが)あまりに社会性のない画家が多い折柄だから、この作家の農村をテーマにしたものを尊重したい気になる。
△武者小路実篤氏――『風景』『静物』何れもうまいものだ、素人だといはれてゐるが、会場を一巡して見落さないところを見るとその個性は玄人を凌いでゐる、作者は恥かしがらないで氏の平凡な人生観を平凡な絵にして行つたらいい。
△梅原龍三郎氏――『霧島』(一)を誰もほめる、そこで私は誰も褒めさうもない(二)を褒めてみる、どつちを褒めても同じだといふ意味で、人々の見落した側に、却つて作者の本質が露はれてゐる場合が多いからだ、画面の上下に物を描き、観る者の視覚を二つに分割させてから、第三にスーと真中に感覚を引つけてゆく手際の良さは、永年この路で苦労した、カラクリ師でなければ出来ない業だ、梅原氏は観る者を時間的デティルの上でピタリと押してゆく術を知つてゐる、それを知つてゐる人でなければ氏に反駁はできない、ただ蔭にまはつてガア/\言ふだけである。
△仰木ゲルトルード氏――『バラとカーネション』はいゝ神経である、然し日本人にはその佳さは理解されないだらう、殊に『ポトレー』の着物の色はヨーロッパ的理解であの色感の西洋的滋さといふものは、東洋人には理解困難なものである、この人の陰影のとりかたの明確性と作者の神経が細かいから少しも不自然でない、『冬の富士』は失敗作だらう。
△藤田太郎氏――『孔雀の見える窓』は、青山義雄と[#「と」に「ママ」の注記]に優るとも劣らない確かさがある、対象の理解の素直さ、色調の遊びが案外に少ない『金魚鉢』にまあ、まあ良しで『烏賊とほうぼう』は甚だ良ろしくない。
△平塚運一氏――(以下版画である)『日蓮岬』では波の停滞と動揺とを巧みに表現してゐてさすがである、岩の起伏も整つた上に変化があつて良かつた。
△棟方志功氏――『空海領』は戯画といふべきだらう、線の連絡の面白さをかふ。
△川西英氏――『新緑』は佳作。[#底本では「。」が欠如]
△ブブノ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]氏――木版画『神社裏』は神社といふ痲痺的な存在の裏に、庶民的な貧しい人間の小屋があるといふ適確な社会意識がでゝゐて優れてゐた『子を抱いてゐる海女』と海の薄明の下に働く女が子を抱いて歩るいてゐる哀愁感は充分画面に出てゐる。
この種のものにはこの人は独特な創意性がある。
△恩地孝四郎氏――『海』海女の居ない方の小さな二枚の海は優れてゐる、若しこの調子の油を描き得たら面白さうだと思ふ。
△彫刻では――阿部進六氏の『少女の首』柳原義造氏の『立像』福沢正実氏の『モンノンクル』など私を注意させたきりで、彫刻工芸は私は良く判らないから書かない。
ルオーに就て
ルオーの公開数点はだめになつた、或る画家は国展はつまらないが、ルオーがあるから見に行くなどと公言したが大変な不心得だ、ルオーの良さが判つたら国展の良さが判る筈である、国展を真に悪くいふことの出来る人であつたら正確にルオーを悪くいへる筈である、なぜこんな謎のやうなことをいふか、簡潔に言へば、日本の洋画壇を沈滞させてゐるものは、ルオー的な現象主義的な観方が画家全般を掩つてゐるからである、国展的なリアリストは観念の硬さに閉ぢこもつて、ルオーを何か動きのある自由な作家の良さと観察する、一方独立展的な観念の柔らかさとふしだらさから、せめてルオー風に観念を定着させたいものだといふ希望をもつて、ルオーの絵の前に頭を垂れてゐる、ルオーはこれらの非リアリスト達にカンバスの裏表から挾み撃になつた型で騒がれてゐる。
ルオーの描法を解く鍵は出品のうちの『サンタンバンク』である、こゝではお汁でベタ柔らかな自由性で描いてゐる其他の絵はこれにただ幾度も重ねるといふ時間を掛けただけだ、ただ日本人はそれではルオーのやうに何べんも重ねたらルオーのやうな絵が出来るかといふと保証ができない、何故といふに、日本人はルオーのやうに画面の処理を浅く全面的にまとめることができるが、深く全面的な完成性を追究してゆく力がないから、画面に大きな欠点を作つて、手を入れることに依つて大きく完成させてゆくといふこの時間的繰り返しの、精神的エネルギーがない、なんでも完成、完成である、短距離には強いが、長距離には怪しいのである、ルオーの現象主義的方法が、その方法の誤りであるに拘はらず、あれだけの物質性を出してゐる理由はあの作画方法の偶然性が果す最後的な効果といふものを、ルオー自身ちやんと知つてゐるからである。
日本にも偶然的なやり方で効果をねらつてゐる画家も少くないが、この偶然的方法の反覆をルオー程に頑張つてやるでもなし、やつたとしてもこれらの偶然性が、一つの必然性に転化した途端の瞬間的な把握力を作者自身がもたないから、だらしなく無駄な偶然性を追ひ廻すだけである。そして結局何も出来上らないのである、ルオーは怖るべき作家でも何でもない、作画方法は見え透いてゐる、もつとも現象的にルオーの画面の上つ面だと見るとすれば、日本の低度の現象主義者は、高度の現象主義者ルオーを理解できないことではあるが。
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革新の日本画展
新日本画研究会展の評
酒井亜人[#「酒井亜人」に傍点]氏――『冬丘』絵の仕上げが粗雑なやうだ。筆触が大まかだが、それは日本画としてデテールを欠き、洋画風なマッスを作りあげようとしてゐるが無駄だらう。日本画の強みは細密に打ちこんだ点にあるがそれを逸脱してゐる、山岡良文[#「山岡良文」に傍点]氏――『煙具』色の近代性を覗つてゐるのは良い、煙草包紙の実物を貼りつけるやり方は甘い、実物を画に貼りつけるといふやり方などは第五流の洋画家に委してをいたらいゝ。『花束』白い牡丹の色の神経は美しい。西垣籌[#「西垣籌」に傍点]氏――『小供』色彩の混濁を避けようとして、避けきれなかつた、もつと猛烈な追求をやつて単純化に復したらよかつた。この人の作は色彩が一見幼稚さうに見えて決してさうでないところに味がある。岩橋英遠[#「岩橋英遠」に傍点]氏――『土』(ニ)非常に感[#「感」に「ママ」の注記]能的でタケノコの描き方など作者の感覚を美事に出してゐた、素朴なテーマを複雑に描くやり方は、とかく日本画では複雑なテーマを単純化したがる一方的なやり方を脱してゐる。島田良助[#「島田良助」に傍点]氏――『夏蔭』度胸のある作家だ、度胸で負けるか、度胸で勝つかは芸術家の運命の決まるところだらう。白の色も特異性がある、木の幹の色、描き方は古い。ツツジ色の甘さは美しい。吉岡堅二[#「吉岡堅二」に傍点]氏――『馬』制約性の下で仕事をすゝめてゐる。つまり自己を繋ぐ方法を自分で作つて仕事をしてゐる態度は正しい。その意味で野放図の自由の中に制約性をみつけて仕事をしてゐる福田豊四郎氏と殆んど対蹠的である。『馬』は激情的な仕事である。問題はバックの銀と前に描いたものとの反映の仕方が充分でなかつた。黒と銀との関係より、黒と茶との関係の方が成功してゐたし、生きてゐた。総体的に今回は仕事が硬くなつてゐた。間宮正[#「間宮正」に傍点]氏――『春郊』二つの丘の中に引かれた線の方向の苦心が面白い。然し成功とは言へない。船田玉樹[#「船田玉樹」に傍点]氏――明瞭、空白、は好感がもてるが、画面に塊りが欲しかつた。部分的描写を全体的に高めるといふ方法に欠けてゐた。中江正樹[#「中江正樹」に傍点]氏――『風花』美しい感覚の持ち主である。このまゝ新しい色の発見に進むこと。風に折れまがつた葉と、折れまがらない葉との関係がはつきりしてゐない。風の吹く方向に神経の細かさが不足してゐたためであらう。久保田善太郎[#「久保田善太郎」に傍点]氏――『陶房』カマドの上に陶器を描いたのはやり方が突飛な割に少しも不自然ではなかつた。配列は一考の必要がある。柴田安子[#「柴田安子」に傍点]氏――『馬市帰路』光りの落ちてきかたは興味がある。子供の頬へ当つた光線は的確であつた。画の出来不出来を別にして、作者の思索生活が出てゐるのは観る者をうつ。井関雅夫[#「井関雅夫」に傍点]氏――『風景』洋画的テーマは悪いとは言はないが、こゝまできたら、洋画への追従でなくもつと徹底してほしい。日本画の行くべき路へ。藤田隆治[#「藤田隆治」に傍点]氏――『歯科室』画面に対象の生活がでゝゐるのは実力があることを示してゐるが、手前のものを突込んで、遠方を逸してゐるのはよくない。塗り方の粗雑さは感心できない。田口壮[#「田口壮」に傍点]氏――『女』直線と曲線とのよき組み合せ、然し色が商業主義的な傾きがある。つまりポスター其他色刷的実用美術的な弊がある。バックは成功してゐたが。福田豊四郎[#「福田豊四郎」に傍点]氏――『華氷』冷めたい氷といふよりも、暖い氷を描いてゐる。それは作家自身の世界観、人生観だから、氷をまた火のやうに描いても一向差支ないことだらう。たゞ氷に閉ぢこめられた花の感覚的位置が明瞭でなかつた。『月と小魚』が好きであつた。泳いでゐる小魚が一尾づゝ己れの影をここでは魚自身の観念体としての影を、ひつぱりながら遊泳してゐる詩味は凡手の到底着想し得ないところであらう、水草をもまた生きたものとして生活させてゐる。ただラセンに曲げて描いた水草は常套的であるし、新味を感じられない。柳文男[#「柳文男」に傍点]氏――『水辺』鯉の鈍重感迫力はある。部分的批評すれば、白い部分はあるまゝでいゝとして、魚の周囲を水の中だと思はせる描法が絶対的に必要である。藤田復生[#「藤田復生」に傍点]氏――『気象台』明析な態度、色の新しさの方向はいゝが、立体感の欠けてゐる点が難、テーマは甚だ立体的だが、描写力が併はなかつたのだと思ふ。島田良助[#「島田良助」に傍点]氏――『女像』不思議な神経をもつてゐる作者である。例へば女の坐りの良い腰部や、重さうな肩などに魅惑的な神経があるのがそれである。色彩は総じて良くない。特異な神経は大切にして欲しい。大石哲路[#「大石哲路」に傍点]氏――『小児』陶器製のやうな小供その覗ひはわかる、物質感がでゝゐる。恩田耕作[#「恩田耕作」に傍点]氏――『葉蔭』青い色や、犬の眼は生きてゐる。犬は細い感じはでゝゐるが痩せた感じがでゝゐない。作者がもしこの種の犬は細いのであつて痩せてはゐないなどと抗弁されたら評者は一言もないが。青木崇美[#「青木崇美」に傍点]氏――『保護樹』繩でしばられてゐる樹、保護の名目で自由を束縛されてゐる人間も少くないから、この保護樹はさうした人間的なものを感じられる。描きかたでは画面のとりかたはいゝが、地面の工夫が足りない。山崎隆[#「山崎隆」に傍点]氏――『海水魚』いゝ作家である。魚達の列、四つの魚の集団が四つの生活を水の中で営んでゐる。茶色の岩の上の写実性はすばらしい。この作者がもし大作主義でばかりゆくとしたらよくない。小品もたくさん作ることだ。この人の小品の力量を見たいものである。
新日本画研究会には、福田豊四郎[#「福田豊四郎」に傍点]氏、吉岡堅二[#「吉岡堅二」に傍点]氏、小松均[#「小松均」に傍点]氏といふ日本画の新しい方向に対する真面目な探究者が加はつてゐるから、特別に指導理論をふりまはす人がゐなくても、これらの人々の作品が語る論理的なものは決して影響が小さいものではない。この三人は決してこの会の代表的作家といふ意味で言つてゐるのではない。この三人の作画の型は、この研究会内に止まらずに、広く日本画の三つの心理的な型として、福田、吉岡、小松といふ人の作品は重要な意義がある。誰でも作風の上ではとにかく、心理的にはこの三人の型のうちのどれかを通らなければならないからである。
小松均
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