れたこの人はもつと色々の企てをやつてほしい。
△橋本省吾氏――『コンポジション』はまあ安心をして見られる程度の良さの画。
△中村金作氏――『機械』いゝ色彩であるといふより自己の神経が色彩の上にでゝゐて、形態の上では追従的であつたが、色彩の上では非妥協的であつてゝ[#「あつてゝ」はママ]。
△中尾彰氏――モダニスト、よろし、あの張り切り方は、多くの独立型の張り切り方と、形がちがつてゐて面白い。
△里見勝蔵氏――『仏像』を賞めるといつたら意外に思ふだらうが、最も里見氏の本質的なものがはつきり出てゐるといふ意味で『仏像』はいゝ『少女』里見氏の描く女はすでに魅力を喪失し始めた。
△斎藤長三氏――馬車二輪はよろし、白い馬の方が描き切れてゐるといふ結果になつてゐる、馬車の上にのつてゐるものの甘い色彩は感心できる、もつとすべてを渋くしたら、覗つてゐるロマンが却つて出た筈であつた。いゝ作家といへよう。
△新羅笙介氏――コンポジションの驚ろくべき絵の具の盛り上げにも、私は何等驚ろかない科学的な幾何学的な世界にも空想的想像的現実があるといふことを調べて(芸術家らしく)そこを覗つた作品を描いてほしいものである。
△浦久保義信氏――絵の出来不出来を論ずるより、この絵とこの作者の運命的なものがどう変つてゆくか興味がある(これは美術評ではない)さほどに問題作であるといふ意味で宿命的な価値がある。仕事が今年は丹念になつてきたのでいゝ『孔雀』がいゝだらう、テーマはこの作者のものは総じて弱い。
△島居敏氏――ろばに乗る少年の図の素朴性は素朴でない連中の中では値打で[#「で」に「ママ」の表記]ある、芸術と素朴、何にやら島居氏にではなく他の連中の創作画態度の上に素朴といふ問題が残つてゐようではないか。
△佐藤九二男氏――『温泉』大胆な表現をどこまでも追究してゆかうといふ態度は、賛成である。あゝした表現でより効果をあげるかどうか更に自己を賭けてみたらいゝ。
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春陽会と国展
ルオーの描写力の事など
二つの会に就て
展覧会や絵画団体とそこに出品してゐる作家との従属関係位、デリケートなものはない、斯ういふ作家を、こんな団体に所属させてをくことは惜しいと思ふことが随分ある、この作家をもつと進歩的なグループの中に住はせて、他の勉強家達をセリ合はしたら、隠れた才能がぐんぐんと現れさうな気がする時もある、
恐ろしいのは環境の力である、春陽会にせよ、国展にせよ、こゝの静的な環境はどうにもならないものがある、突然の変化をもつて、新しい仕事をしようと気構へてゐる作家もあるだらう、然しさうした積極性をもたうとすると、ぐつとそれを後に引きつけるものがある筈だ。
一体それはなんだらう、春陽会といふ一つの団体が身につけてゐる環境であり、脱れることのできない泥沼である。その意味で出品作家達個々の背負つてゐる社会的環境の性質を、かうして具体的に展覧会で見せてくれて貰へるといへる、独立展は観者の眼を痛くするための展覧会であるとすれば、春陽会国展は観者の眼を瞠らす展覧会である、こゝに出品してゐる作家に、私は芸術上の言葉、『平安』『秩序』『完成』『理性』『静観美』といつた性質の言葉が全部当てはまると思ふ、しかしこれらの合法則的な言葉を認めこれが作品に現れてゐるとすれば、これらのものの正反対の、『不安』『無秩序』『未完成』『感情』『動的美』といつた心理的過程を、これらの人々が真剣に通過してきて、これらのまとまつた温和な絵が出来たのかどうかを質問したい。
描く対象に対する懐疑も、一応認められるが、なるべく混乱しない程度に懐疑するといふ限界内で止めてゐる、そこに春陽会、国展出品者に共通な、作画上の道徳律を発見する、他人の考へを騒がしてはいけないといふ良心性は、腹の底を割つてみれば、他人にも自分を騒がして貰ひたくないといふ報酬を求めてゐるだけである。
そして私はこの両展覧会が不思議に、沈着いてみせてくれたといふ事に就いて、独立展其他の所謂前衛的展覧会が沈着いてみせてくれなかつたといふことと思ひ合はして、色々な意味で考へさせられた、人間の心理を掻き立てるだけを芸術的アッピールだと考へちがいをしてゐるらしい新しい傾向の画家と、とにかくじつくりと見せてくれた春陽会国展とどつちに感謝したらいゝかといふと、不思議なことに、新しい傾向の絵で胸を騒がして貰つたよりも、アカデミーと称し、クラシックといはれてゐる春陽会、国展の方に感謝してゐるといふ答がでた。
宣伝、煽動を芸術行動の目的として認めなければならない、左翼的絵画でさへも、尚且つ必要以上に、絵をもつて宣伝、煽動をすることが誤りであらう、一つの条件としてまづ落着いて見せる――然る上に――といふのが正しいのである。
その意味で、春陽会、国展の絵画の沈着き方が、必ずしも芸術の腰が抜けてゐるとは一口に言ひきれないものがある、要するに『激情的なものの価値の高さ』は時には円満な高さに於ても果たせるといふことが、問題として残つてゐる。
それこそ高い意味での『完成性』といへるだらう、春陽会、国展は、その意味であくまで写実性に喰ひ下つてゆくといふ態度に、強味と弱味とを同時に備へてゐる、そして如何に今後仕事を進めて行つていゝか、問題は簡単だ、これらの矛盾は『写実性』を離脱したいといふ域内で解決してゆくことである。
超写実をやりたかつたら、他の団体へ行くべきである、写実との格闘が『新しい芸術』を生むことが不可能などといふ不心得な作家はこの団体にはゐないと思ふが、新しい仕事が出来るかできないかは、写実性への喰ひ下りが徹底してゐるか、ゐないかに依つて決まるし、仕事の面白さはそこにこそある、超写実的な現実逃避の作家はこれから随分でるだらう、然しこの新しがり屋の仕事はものの二年とは続いたためしがないのである。
さうした意味で春陽会、国展の作家はその手法の写実性が悪いのではなく、観念が古いのだといへよう、それを指導してゆく諸幹部また、新しいリアリズムに対する理解がおそろしく欠けてゐるといふことが、この団体を全般的に硬直化させてゐると思ふ。
春陽会の評
△高木勇次氏――「切断」倉庫街での鉄材切断を描いてゐるが、物質を切断するといふことに対する鋭敏感は認められるがそのために描写法を鋭敏にしなければならないといふ考へ方が既に古いのである、新しい写実家は、そこのところを描法を感性的にせずに、四つに組んでゆくといふ点にある、テーマも良し、感覚も鋭いが、それだけでは駄目なのである。
△新沼杏一氏――『冬の夜』少女達が手芸をしてゐるらしい絵、ケンランたる色彩といふより、ケンランたる現象、我々の視覚をまどはすために仕組まれた絵。
△二見利次郎氏――『作業』の鈍重感は成功してゐる。
△小穴隆一氏――絵の仕上げの丁寧さ位よりとるべきものなし。
△木村荘八氏――『浅草元日』『幽霊せり出し』等の所謂氏の芝居絵である、幽霊せり出しはテーマは賛成だが、氏にして良くロートレックやドガのやうに、この種の社会を庶民的テーマとして引き下げる力があれば面白いが、芝居道の肯定者らしい態度が妙に美しいものより描けてゐない。
△中山一政氏――なんの感覚としての動きなく、これは器である左様、これは水である左様、といつた現実感が産ました絵。
△山田峯吉氏――『T画伯の像』は出色である若し氏にして天才主義者で、芸術至上主義者でなくてさうした画風を描いてゐる人であつたら充分新しい仕事が出来る人である。
△豊泉恵三氏――『婦人像』バックの色感は美しかつた。
△水谷清氏――『印度童女』滑稽な程立派な自信で描いてゐる。
△鳥海青児氏――『南薩山川港』右手の崖と見える色調に不思議なリアリティを発見する以外、こんなに絵の具を何のために盛上げるのか、所謂絵具の盛上の必然性が全くない、彼も遂にこの団体で朽ちるのかといふ感が深い惜しい作家である。
△石井鶴三氏――『常田獅子無』の屏風構図のとり方が洋画畑の人であるといふ意味で新しい形態がある、但し日本画家側から見たらまた意見が違ふ筈だ。
△若山為三氏――少女読書は線の稀薄性が却つて面白い効果をあげてゐる、いへばもつと線を稀薄にする勇気があれば尚面白し。
△山田義夫氏――意図や仕事のしつぷりが新しいが、残念なことには色彩が古い。
春陽会に出品者は多い、他を評さないのは見落したのではない、問題を提出してゐないのだ、従つてこゝに評した人必ずしも佳作者ではない、良い意味と、悪い意味とのその何れかの問題の提出者であるといふ意味で評した。
国画会の評
△長谷川春子氏――『ヴ※[#小書き片仮名ヰ、169−下−15]ナスの誕生』は色彩の神経だけをみるとき異色のある作家であることが判るが、をよそその形態のでたらめさは救ひ難いものがある。
△中村茂好氏――『友人』人物の顔の描法と、人物の服や椅子の描法の矛盾、最後まで描きぬかずも投げ出してゐる力弱さ、素朴な態度の良さはある。
△ブブノ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]氏――この絵は、版画的処理をこの油にまで持ち込んでゐるといふ意味で失敗作だらう、油を盛りあげた実力を拝見したい、※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵や版画にはすぐれた面をみせるが油では感心できない。
△宮田重雄氏――玄人芸に非ざれば、即ち素人芸なり、つまり絵画の両極性は一つの常識に帰する、何の変哲もなし。
△山下品蔵氏――『椿咲く村』(二)は大いに問題にしていゝ、ナイフの剥ぎとりの上に、更に描いて効果をあげてゆく業、ナイフ使ひの悪魔共、大いに氏を参考とすべし、この非凡な作家と[#「と」に「ママ」の注記]時代は彼を殺すか噫。
△青山義雄氏――画品の良さは青山氏と山下氏とどつちが良いかといふ点では、山下氏をとる、フランス生活のお土産のやうな絵の人気と、氏の実質とは又別だらう、色感も古く、形態、構図をたくましく裁断してゆく度胸もなし、さりとて山下氏式に写実と運命を共にする素直さもなく、ここにも噫がある。『アマリリス』の色の混濁、壺とその下はいゝが、他人は『鹿児島風景』(一)が良いといふが、斯うした現象的な扱ひ方は何等新しい観方ではない、色など殊に『紫』などは東洋的で西洋的でもない。
△内堀勉氏――褒状をもらつてゐる、この新しがりに、褒状をくれる会の方針が判らぬ。
△椿貞雄氏――『黄富士』『赤富士』の無神経さがよい、もし神経を使つてゐるのだと作者が抗弁すると仮定したらではデティルが出てゐないぢやないかと反駁したい、部分的描写を無視して、あれだけ赤さ、黄さを表現する業はさすがである、あわてゝ色をかけた感じである。
△宮坂勝氏――『裸体』まづ見られる、人物の感情が良くでゝゐる、然しバックの調子をもつと落す度胸はない、一応は訴へる力をもつた作家だが、度胸なくて負けてゐる作家。
△別府貫一郎氏――『木曾川』の色の調子は自分のものをあれだけ手離さずに全体をまとめ得れば結構である、自分の個有の色を手離してしまつてゐる作家が更に多い、別府氏はその個性的な色を他人に開け渡してゐない強味がある。
△鈴木清氏――『自像』この絵はこれまで無理をしてまで絵を描かねばならないかと思はれる絵、それは絵の出来不出来ではなく、構図の上でゞある、高い所に鏡を置いて、それに自分を映し、自分が体を捻つて、上を仰いでは一筆描き一筆描きしたやうな絵。
△金井康次郎氏――『窓辺静物』(A)の簡略化は(B)とともに良し、調子は(B)の方向で進んだらよいと思ふ。
△東克巳氏――デッサンの裸体は端麗な線でリアリティをとどめようとしてゐる企てはよく判る。或る程度の成巧を見せてゐる、風景の細密描写の点ではこの人の右に出る人はあるまい、問題は描写の細かさではない、突込み方の態度の細かさで、態度の良心性がなければこの人の真似をしても出来るものではあるまい。
△佐藤哲三氏――『農婦』の色の同一性は問題であらう、現実には、
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