し、誤解もされるやうになつた、私が青木を非凡な男だと思つたことの一つに、彼は稽古のときには筆癖があるが、ひとたび製作となると、その筆癖がちよつとも邪魔にならず、かへつてそれを特長として生かしてゐたといふことなどで、肖像画などを頼まれると、その頃肖像画風に、所謂写真のやうにかいたものだ、或るとき青木は殿様に肖像画を依頼されたことがあつたが、その肖像画なるものがちつともその殿様に似てゐない許りか、自分流なかき方で面白、おかしく殿様の顔を表現した。さういふことは当時としては珍らしいことで、殿様を単に肖像画化さないで、自分の理解に立つて、それを諷刺化してしまつたといふことなどは、ちよつとやれることではない、私はそれをみて豪い男だと思つたものである、青木が不遇であつたといふことにもいろいろ理由があらうが、その芸術家としての考へ方や、生活態度といふものは、支那思想からきたものであつたために、その深い作画態度は一般に理解され難かつたものと思はれる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
独立展を評す


 独立展の作家諸君に対しては私は次の言葉を当てはめることから始めよう、即ち『彼等は教養の不足に苦しむといふよりも、寧ろ教養の混乱に苦しんでゐる、然も教養の混乱に苦しんでゐる事が教養の不足に容易に気がつかせ[#「せ」に「ママ」の注記]ないといふ厄介な状態に陥ち込んでゐる――』
 こゝでは画家としての無教養者の集まりが独立展だといふのではない、ただその持ち合せの画家的教養なるものが現実そのものに先手をうたれたかたちで混乱状態に陥ち入つてゐるといふ意味である。
 役にたたない教養であつても尚且つ絵は描き得るといふ前提の下に、この人々の絵画なるものを、完全に絵画であるといふ立場を私は肯定して、批評して行かうと思ふ、それは厄介な仕事には違ひない、ただその厄介さを買つて出る程に、私といふ一門外漢にも絵を批評するといふ親切さがまだ残つてゐるといふことを認めていたゞきたい。
 私は印象批評といふことが嫌ひである、しかし多くの洋画が、私にとつては印象批評を避けては、全く一言半句も批評することができないほどに、この人々の絵が何が何やら判らないものを描いてゐるとすれば、これらの人々の全く印象的な態度に応へる批評態度として、印象批評をやるより方法がないと思ふ。
 そこで私は一瀉千里的に、これまであまりやりたくなかつた印象批評、直感批評を、この展覧会の人々の作品にやつてみたい、そして勝負をかういふ風に決めたい、即ちかゝる人々の描く、全く現象的な印象的な、わけのわからない仕事も、また何等かの形でその作画過程に、現実的根拠があるのであるから、私の直感批評もまた、私の背後に現実的根拠をもつてゐる、さういふ意味で、この人々が描いた現実的根拠の反映としての、現象としての絵画と、私の印象批評の現実的根拠と、その結果としてどつちが正しいかといふ、勝ち敗けを決めたい、それは誰が決めるのか、それは私が決め、出品者が決められる(或は反対する)といふ以外の一般観衆に決めて貰つた方がいゝ、もつと徹底した言ひ方をすれば、独立展をみにくる観客なるものの、社会的な層が如何なるものであるかといふ吟味から先に決めてかゝらう、若し観客なるものが、役者が役者を観客に招いたやうな結果つまり画家が専門家だけにみせてゐて、大衆が全く見に来てゐなかつたと仮定したらどうなるだらう、私はその意味で、独立展をみに来ない(観客)の意識感情まで代表して、批評したい位に考へてゐる。
 現在の現実の反映はなかなか独立展では見事に完全であるつまり社会的現実の矛盾の反映として、実に立派な絵が多いのである――しかし矛盾の反映即ち芸術の価値――とはどつこい問屋でもさうはおろさないのである。民衆の生活は相当に矛盾そのものであつて、現実は複雑そのものである従つて一般民衆はこれ以上に何も芸術家に、現実以上に(心理的に)矛盾を多くして欲しとは思つてはゐないのであるもう沢山なのである、簡潔とか整理とかいふ言葉に、芸術が現実の人間として、その所有してゐる観念に対して、その観念をもつて簡潔にしてくれ整理してくれと大衆から懇願してゐるのである、心理主義者がもつ当然の陥ち入る穴は、形式主義であり、従つてその態度から生れた、芸術上の不真実は、直接に、善悪の問題と関係がある、つまりあゝした絵が多いことが、現実の歪曲であるとすれば悪である、悪は取りのぞかなければならない、批評家がもしファシストであれば、手に刀をもつて一人づつ斬り殺しにでかけなければならない程切実な問題である、然し批評家の武器は、ほんものの剣ではなくて、言葉である、従つてどのやうに激しくても、被批評者は心理的には殺されることがあつても、肉体的に死ぬやうなことがないから安心できるだらう。
△中山巍氏――画面のポーズがもつてゐるセンチメントが色彩のリアリティを減殺してゐる(さて私が言ふ意味がこの作者に判るかどうか疑問である。)[#底本では「)」が欠如]『ギリシャの追想』この作の所謂追想なるものが、彼自身近代人としてか、或は古典人としてかその立場がさつぱり判らない。
△靉光氏――無説明的な説明を加へようとしても無駄だといふこと、物の『現象』とは何かといふ根拠から出発の仕直しをすべきだ(私はこの作者を真個《ほんと》うは好きなのだが、この作者の考へ方が甘く感じられてならない)。
△菊地精二氏――色々色彩の分布的な配列的な絵ではあるが案外色彩の段階といふものを知らない作家。
△森有材氏――『ゴール』色と陰との観念的な分解、運動してゐる人間が、いささか空間的に画面的な充実をしてゐる位がとり得『躍動』よろし、この絵はデティルを看過しなかつたことが、全体を躍動的にうごかし得たといふいゝ見本であらう。
△池田金之助氏――草の色彩青はよし、近代的な色彩としての理解がある、横はる裸婦に色の心理沈澱あり。
△妹尾正彦氏――精々お遊びなさいといひたい処である。
△多賀延夫氏――『鉄屑』苦心してゐて物質性がでゝゐない、物質の原素的なものの見極めを一応つけたら、現実的な色が抽象されてくるだらう、作者の態度は賛成だが。
△宮樫寅平氏――迫力をもつと生かせ、現在の色彩でそれで満足してゐる度胸があるかどうか。
△佐川敏子さん――『砂地』は明日のリアリストとしての出発を約束したいがどうか、然し現在は危かしいリアリストと私は診断したい。
△田中行一氏――グロンメール先生から離れたやうに見えるしかし事実は色彩の上でか、線の上でか、結果離れてはゐない『結髪』で自己のものを築きあげたらいゝと思ふ。
△寺田政明氏――今年は画面の整理で行つた『美しき季節』はよろし、デティルにかゝづりあつてゐたために、綜合的な力を欠いた憾みがある。もつと写実家としての方向転換を望む。
△森堯之氏――どうやらシュルリアリズムらしい絵を描く人に映像をもつと現実化したらよかつた、それは出来ない相談ではない。
△海老原喜之助氏――「市」色の単純化の方法の中に、この画家の心理的段階を容易に発見することができる、色に感覚がないのをリアリズムと履き違ひをしてゐるかのやうだ。
△川口軌外氏――色も形も汚ない、ボカシの方法を使つてはいけないといつたら、彼は小児のやうに泣く[#「泣く」は底本では「位く」]だらう、精々単純な技術を、最も有効に使つてゐる。
△中間冊夫氏――男女二人よろし、抱き合つてゐる女二人成功、綜合力があるリアリスト、つまり画面に神経が行きわたつてゐて気持がいゝ。
△菅野圭助氏――色彩よろし、色彩の方向がもつと決つたら形の方向もきめることができる――この注文は謎ではない。[#底本では「。」欠如]
△佐藤英男氏――『丘』作者の意図するところは判るが、重力の法則を無視して、空間に物質を止めようとするやうな空しい努力がある。背景としての空の部分のマチイルを逃げた処にこの作家の弱味がでゝゐる、画面に於ける空間とは、充実せる物質なりである、良い作家だが、追究を最後には逃げる悪い癖がこの作家を伸ばさない。
△大野五郎氏――感傷的な遊でも良いだらう、現実に詩人がゐなかつたら、この程度の詩的なものも認めるだらうが残念である。
△鈴木保徳氏――『島にて』空よろし、他の色甘し、『鶴をうつす人』鶴とそれを写生してゐる人とを描いてゐるが、状態は将に逆だ、鶴にうつされてゐる。
△木村忠氏――『裸婦』よろし、いゝ神経だ、将来の実力発揮のためにいゝ神経を害ねる勿れ。
△土岐流司氏――失題よろし、リアリストとして将来勝てる作家である、自重のこと。
△藤岡一氏――『マンドリン』『花甘藍』と題をつけるのはあまりにシャバ気がある、無題とまで徹底できなかつたら、かうしたコラージュ的な仕事を廃した方がいい。
△清水錬徳氏――気まじめさが足りないが、いゝ画であつた、いゝ加減善心に立ち還つた方が身の為めだらう、あまり画集などに頼らずに自分の個性的な仕事をすること。古い天才主義と別れること。
△井上長三郎氏――『絵画』誰も絵画でないといひもしない先から、何故『絵画』などといふ題をつけたか、それを知つてゐるのは作者自身と斯く批評する私とだけだらう――などといつたら両者結托してゐるやうに誤解し給ふな、大家となると往々題のつけ方が果す役割といふものを知つてゝやることがある、それは良いことではない、この絵の線からピンセットで一本一本不要な線をとつてしまつて、どれだけ必然的な線が残るかといふ仕事を観衆がやつてみたらいゝ、どれだけこの線の走り方、本数に科学的根拠があるかといふことが証明されるだらう、井上氏は一応はリアリストではあるが惜しむらくは科学的ではない。
△清水登之氏――『砂漠』あゝいふ色の黄色な砂漠などは現実にはない、あるものはあゝした色彩の『砂漠』といふ絵が存在するだけだ。
△磯部章三氏――『栄誉』よろし良心態度の前には敵なし。
△斎田武夫氏――『狐』は問題作である、私は主として色彩の触発性の点で、作者の苦心が充分に判る、外光派、印象派の色彩に対する理解が依然と新しさうな面つきをして絵の中に未解決のまゝで引ずりこまれてゐる、画家の多いのに、斎田氏は新しい光りに対する理解を示さうとしてゐることはいゝ、光の触発性に就いての私の意見は次の機会にのべたい。
△水野佳一氏――一応の理屈はもつてゐる、然しその理屈の未来性は決して新時代的なものではない、ケレン性を去れと言ひたい。
△須田国太郎氏――この作家は私は好きであるが、年毎に残念なことには、彼の態度の真面目さの如何に関はらず作者の矛盾ははつきりしてくる、現象主義者の当然陥ちこむ罪に陥ちこみ始めてゐる、観念主義者だけがもてあそぶ手法に二重映像といふものがある。須田氏もまたこゝに行きついた型である。
△浅田欣三氏――『同時的印象』と題して絵はシュルリアリストはこの程度の考へ方や技術をもたなければ問題にはならない、シュルリアリストは少くとも新しい傾向であるといふ意味で聡明でなければならない、その意味で浅田氏は聡明である、この程度の絵になると、私はこの絵だけで二十枚も三十枚も批評をしたくなる、私はこゝで少し理屈を言はして貰へば、浅田氏は印象といふものをどういふ風に理解してゐるかといふことを聞いてみたい、印象とは何か――印象とは人間の諸々の諸感覚のうちの一つの抽象であるといふことははつきりしてゐる、それではかうした抽象的なものに『同時的』とか『同一的』とかいふ命題を与へるといふことは正当であるかどうか、印象そのものの、同時性とは、同時に最も非同時的なものも内容として抱含されてゐなければならないといふこと、他のあらゆるものの差別性を肯定して始めて完全な姿になるといふこと、印象といふ抽象的感覚を二つ複合して辛うじて単一なものを表現するといふ考へ方が隠れてゐたら非常に消極的な画題や意図であると思うへるだらう、浅田氏の描法の一応の正しさは、細密描写の部分も、重要な手法として肯定してゐるといふ点であり、画面の種々の相関関係を見のがすまいとする態度は見受けら
前へ 次へ
全42ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小熊 秀雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング