――の国土を護る式の題材には賛成できない。渡辺氏の指導力が若い作家達にかうした題材の選択の上に模倣者があるとすれば問題である、芸術の題材を政治に結びつける誘惑を若い連中に与へるやうなものであるからである、渡辺氏の場合私は氏の大作は作品でなくてジャアナリズムだと考へてゐる、馬鹿力を出して作品をつくるといふ精力主義が陥るワナは、文学にせよ、美術にせよ、批判精神を失つた芸術家が、大作主義と技術主義に引つかゝる、こゝでは作品の大きさと技術を指示する以外に手はない、渡辺氏の場合にも『小品』に優れたものが多い。小品には人間の暖かさを発見できるからである。

      坂本繁二郎小論

○坂本繁二郎氏の絵画に就いて少し許り長く書いてみる、何時も『馬』許りを描き、毎年同じやうな画風で押し通してゐる坂本氏の作家的な地位に就いては、誰もまだこの画家に対して決定性のある言葉を吐いてゐるのを聞かない、寸感や、小印象や、漠然と『良い』とだけ言つてゐるのは聞いた、前にも述べたやうに題材は『馬』と決つてゐる、画風はあの通りである、それでゐて批評者達は作者が態度を決めてゐるのに、何故批評を決めないのであるか、或は決めることが不可能であるのか、どつちであるのか? こゝに坂本氏の地位の微妙なところがある、こゝに芸術の妙味と、現実の面白さがある、坂本氏の芸術は怖ろしく偏つた芸術であるが、この偏向の芸術を現在何の不思議さも感じさせずに会場の一隅に列べさせてをくやうになるまでには、坂本氏の人間的強さと現実克服の長い間の聖戦がある、いま坂本氏の作品が一つの平衡状態に於いて我々に観させるやうになつたといふことは、言ひかへれば坂本氏の芸術が勝つたことになる。画面の上で何時も平衡状態を打破つて、いかにも年々発展し、飛躍してゐるかのやうに見せかけてゐる画家がいかに多いことか、本質的な変化が作家の心内に訪れるのを待ち切れないで一気に画風を変へるといふやり方で、幾分でも発展的なコースを辿れるのは、若い間のほんの僅かな期間だけである。現実とは如何に峻烈なものであつて、組み伏せるには余りに頑強な相手であるといふことに気がついた者は其処で改めて慎重にシキリをし直すものである、坂本氏の芸術態度はピタリと決つたシキリと緩慢な動きの中に大きな技を発見する、それを仮りに証明するとして、坂本氏の作品を制作年時代順に列べてみたらいゝ列ぶものは馬だけである――然し驚異すべき発見を見出すだらう、ジャン・コクトオが芸術には『先駆者なんか居ない、ただ遅参者だけが居るのだ!』と言つた意味は坂本氏の場合の意味である、天才などとはどれほど思ひがけないものを持つてゐようとも、常に適当な時間に到着するものであつて、その時間が鳴るや否や他の時計は一時的に遅くなる――とはコクトオの考へであるが、私も坂本氏の優れた遅参者としての態度、殊に最近益々その純粋さを益す坂本氏の作品を見て、それを痛感することが多い。
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熊谷守一氏芸術談
   青木繁との交遊など


 過日池袋モデル倶楽部に於て、倶楽部主催の座談会が催されたが当日二科会員熊谷守一氏を招待、氏の永年の作画生活からの傾聴すべき芸術談を聴いた。尚同氏と天才青木繁との交遊回顧談などもあり、かうした機会にノートしてをくことの無意味でないことを痛感したので、この一文をまとめて発表することにした。(小熊生)

 絵といふものは作者が興奮しないときに、よく見るといふことが肝心である、さういふ状態までもつて来なければならぬ。
    ◇
 上手の欠点といふことがある、実に上手に描ききつてゐる、これでもか、これでもかといつた絵である、しかし私はさういふ絵を見せられると『それがどうした!』と言つてやる、上手さばかり追求しても、自づからそこに限界があるからつまらぬ、それよりも鷹揚な美点をもつた絵が良い。
    ◇
 私は描いてゐて『技巧』が入れば、いやに癇癪が起きる、他の人は却つてこれが都合が良く思ふらしいが!
    ◇
 画家と時世に就いては――ずつと絵をやつてくると、住むところと時代や階級で、生れ変つて来なければどうにもならないものがある。もつとも私は自分の絵でも、自分が描いたと思つたら大間違ひだと考へてゐる。
    ◇
 画家は環境を否定することはできない、自分だけといふわけにはいかない。
    ◇
 画はやり易い方法でやつた方が出来が良い、絵になつてから結果がよい。
    ◇
 理想と実際とは逆な場合が多い、ちぐはぐになつていける人は幸せだ。
    ◇
 理詰めで解決しないで、なるべく仕事で解決したらいゝ、理論や理屈の多い人は、さういふことが自分で気持をこはす種になつてゐるのではないか。
    ◇
 大勢で絵をかくことの得な点は、ならんで仕事をしてゐると自分の欠点を他人がやつてくれてゐるのをよく発見することがある。
    ◇
 私は絵を描き始める、丁度五分位経つたとき鼻唄がでてくる、さういつた時が肝心なときである。
    ◇
 技巧に就いて――技巧などは花火のやうなものである、それを出しきつてしまふか、とめるかが問題である、出しきらずに例へ低くても、もうちつと手前で止める、さうしたやり方が出来がよい。
    ◇
 佐伯裕三などは呼吸の切れた作家のお手本である、あれだけ描いて真蒼になつてゐる。
    ◇
 坂本繁二郎は昔から同じことをやつてゐる男であつた、さうかと思ふと坂本とは反対にミヅテンのやうにがらがらと画風を変へてゐる連中も少くないが、結局坂本は個性的な作家である。
    ◇
 絵の仕事は、自分が喜んでゐられるかどうかといふことが大切である。たとへば赤い帽子をかぶつたとする、自分がおかしければ他人もおかしい、そうでなければ平気でかぶり通せるわけだ。
    ◇
 研究所などで研究生が乱暴な絵を描いてゐる、昼がきて弁当のパンかなにかを出してこの連中が喰べてゐるが、そのまづいパンを如何にも大切さうに喰つてゐる、私は思ふせめて自分の描いてゐる絵をパン位に大切に描いてくれたらと思ふ。
    ◇
 古賀春江の絵は好きだが、それは彼が病人であつて、あゝいふ絵をかいたから良いので、もし健康な普通の人があゝいふ絵を描いたらはり倒してやりたい位である。
    ◇
 青木繁[#「青木繁」に傍点]といふ男は実に変つた男であつた、青木が田舎から帰るとき、シルクハットを冠つて、燕のやうな格好をした洋服を着て、『やあ、いま来た!』といつた調子で現れたときは、ふきだしてしまつた。はたから見たらその奇行に驚ろくが、青木の気持を知つてゐる者からみたら、やることが奇行でもなんでもよい、自然な無邪気なやり方であつた。友達の留守に、友達の絵の具箱を無断で持ち出して絵を描いてくる、そんなことをよせといふと彼の言ひ草が変つてゐる。
『おれは良い仕事をやるのだ、そのためにはすべてのろくでもない画家は、おれの埋め草になつたらいゝのだ!』彼はこの調子であるから、仲間にも誤解をうけた。下手なお前よりも、自分は後世にのこるやうな仕事をするのだから絵の具は俺に使はせろといふわけである。そんな具合だから、青木は非常に自我が強くて、一度斯うと言ひ出したら後へ引くやうなことがなかつた、それに就いてこんな話がある。
 帝大の通りを本郷三丁目の方から、私と青木と或る夜通つてきた。すると遙か前方に街燈が光つて見えたが、その燈火の後光を見て、私が光りが下に向つて射してゐるといふと、青木は『いやあの光りは上へ向つて射してゐる』と主張した。そこで私はそれは違ふあの光りは下に、つまり街路へ向けて射してゐるのだと主張して譲らず、青木はその反対だと言ひ、どうしても頑張る、果ては私と青木は歩るきながら激論になつた、結局二人はその街燈の傍まで行つて勝ち負けを決めようではないかといふことになつた。
 さて街燈のある柱の下に行つて見ると二人の主張がどつちも真理であることが判つた。それは私は平素歩るくのに下をうつむいてあるく癖がある、それは一つの性格であるだから下を向いて歩るく私にとつては上の方に射してゐる光線は見えない、ところが青木繁といふ男は、大の威張り屋で、路を歩るくにも傲然と天井を向いてあるく方だから上へ射してゐる街燈の光線は見たが、下の方の光りなどは見ないといふわけで、この話などは青木の不屈な性格を語るに適当な話だらうと思ふ。美術学校時代の青木は、学生仲間にあつても、ひとり超然としたものがあつた、先生の黒田[#「黒田」に傍点]が、青木に眼をかけてゐてその素質を認めてゐたが、御本人の青木はそれに反して、黒田など眼中にをかないといふ態度であつた、教室で生徒がモデルをかいてゐるところへ黒田が入つてくる、黒田は生徒の絵を批評をするのであつた、さういふ場合青木は黒田が教室に入つて来ると、途端にぷいと画架の前を立つて、教室のドアをピシャンと音をたてゝ閉めて出て行つてしまふ。さういふやり方のなかには、青木は心の中で、『おれの絵などを黒田がわかるものか、おれの絵を見る資格などを彼がもつてゐるものか!』といつた自信がふくまれてゐたらしい、やり方としてはなかなか皮肉だが、自分の仕事に対する強い執着の前には、先生の批評をさへこばむといふ、芸術家としての可愛らしさがあつた。今ではちよつと絵を描きさへすれば画かきで誰でも通る時代であるが、当時はさうもいかなかつた、今は世の中が組織だつてきてゐるから、画家の性格や、製作態度も昔のやうにはいかないにちがひないが、やはり昔の画家の方が芸術家の生活態度として、いまよりずつと真剣であつたやうに思ふ。青木と私とは画架を前にして、ならんで製作してゐるときなど『おい、ひとつ場所を変へて見ようぢやないか!』などといふことがある、そこで青木は自分の場所を離れて、私の画の前に来る、そして私が青木の描いてゐた画の前に立つ、そこで青木が、私の絵をみながら、先方のモデルと見較べながら[#「見較べながら」は底本では「見較べなから」]『熊谷みろこんな出鱈目の線を引く奴があるか、かういふ風に線は引くんだよ』といひながら、私の絵をどんどんなほしてしまふ、すると私はまた私で青木の絵を『青木、お前の眼は盲か、こんな皮膚の色があるか、斯ういふ風に色といふものはだすんだ!』と私は私流に青木の裸体の色を訂正する、そしてお互の欠点をなほしながら二人は『あはは!』と声を合して笑つたものである。今では百号や百五十号の大作を描く画家は珍らしくもなんともないが、当時そんな大作をするものは少なかつた、突込んで丹念に描いてゐたから二十号大のカンバスでも、今の三百号位のものを描くほどの努力を払つてゐたと言へる。小杉放庵[#「小杉放庵」に傍点]などもまだ若い頃で青木の処へ絵を持ちこんで見せてゐたらしい、彼は当時池の端の芸妓かなんかをかいて得意でゐた、青木は威張つて自信をふりまいたが、その反面に謙遜なものがあつた、我々が見ると決して悪い出来だとは思はないのに、彼自身は自分の絵を、描きかけだからよくない/\と何時も弁解してゐた、描きかけどころか、実に綿密に細かくかいてゐるのであつたし、その絵は非常に優れたものであつた。私はその頃アカデミックな手法でかいてゐたが、青木は私の絵をみて、何時もかう言ひ言ひした。『熊谷、お前は今はそんな絵を描いてゐるが、今に見ろ、きつとおれみたいになるから!』と私の運命が、青木と同じ方向にゆくといふことを、早くから彼は予言的に言つてゐたものであつた。青木といふ男は、その頃は全く彼の理解者が少なくて不遇そのものであつた。よく友人が私にむかつて、『お前は青木とつきあつてゐるのか』と青木と私と交際してゐるといふことを非難めいて言はれたものである、青木も田舎から自信をもつて東京に出てきた。出てきてみると志とちがつて、自分のやることや望むことが、いちいちひつくり返されてゆくので、しまひには性格も変つて、今度は人を人と思はぬほど、威張ることを覚えてしまつたため、それで却つて理解者も少ない
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