つづけることが意味がないといふことを私が忠告してゐるだけである。
『ヱコルド東京』の若いグループの中では、麻生君や、安孫子君は私の好きな画家であり、作品も個性的であるといふ意味で支持したいが、正直なところこの二人の画家にも来年の仕事は保証が出来ないのである。若い年代に良い絵を描くことは、生理的にも当然なことで、三十を過ぎて行き詰つてゐる画家を訪ねて二十代の絵を見せて貰つてみたまへ、かならず二十代にはいゝ絵を描いてゐるにきまつてゐる、それが奇妙に三十をすぎると言ひ合したやうに洋画でも、日本画でも行き詰る人が多い、人間の生活に時間が加はるとその人間の価値がだんだん下落してゆくといふことは、世間一般の生活人には案外に少ない位で、却つて芸術家の場合が多いのだ、年輩になると人間が出来てくるといふことは、世間一般に言はれてゐることで、感情的な仕事に携つてゐない通俗社会人でも、そのことがある。何かしら人柄の穏やかな、好ましい庶民的タイプといふものが、画家ではアンリー・ルッソーの描く人物のやうな人物がある、別に芸術をやるわけではないが人間そのものが芸術品のやうな人物がゐる、ところが年をとるとともにその作品に通俗性が加はつてくるといふことが芸術品に却つて多い、私はそのことが堪へられないことだと考へる。若い年代には何かしら新しさを求めるといふ欲望が動くそのことは賛成だが、描かれたものの真実性は即ち(新しさ)でそれ以外ではない。『真実を描く』といふ一本槍は何々主義などといふ絵画の主張を超えて、独自な新しさを表現することにならう。ヨーロッパ的なものに飛つくこともよいがその前に東洋的なものの過去の遺産の摂取に若い画家こそ大いに勉強していゝのではないかと思ふ。
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二科展所感
   坂本繁二郎小論


○島崎鶏二[#「島崎鶏二」に傍点]氏――この人の作品に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵性があるとか、文学的であるとかいふ非難を折々耳にするが、その批評は当つてゐない、絵画に於ける文学性などといふ理論は成立しないのである、画家仲間でさういふだけである、その非難の後に密着するものは、曰く造型的な力量が欠けてゐると、――主題が一つの暗示性をともなふと往々文学的であると一口に非難してしまふが、この種の作品に対してさう批評をしないで、科学的な観点からの具体的な評を求めたいものである。画中の人物のアクションが、作画的固定性を超越し、その人物が次の動作に移動するといふ、絵画上の叙述性を示すと、すぐに文学的であるとか※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵的であるとかいつてケナすのは誤りである。『川辺』や『野路』など肉の薄いものではあるが、一種の凄惨なリアリティをもつてゐる『野路』の子供達の表情に痴鈍な美がある。
○岡田謙三[#「岡田謙三」に傍点]氏――色彩に対する感覚的な尖鋭さはゼロと言つてもいゝ、色彩の根底に近代的な卑俗性が流れてゐる、色彩はあくまで純粋でなくてはいくまい、福島金一郎氏の作品の色彩と比較したら判るだらう、岡田氏は勉強家だといはれてゐるが、感覚の鈍磨は将来のがれることができまい。
○長谷川利行[#「長谷川利行」に傍点]氏――彼は乱作家である、しかし自己主張もこれまでに徹底すれば、少くも憎むことはできまい、何か一種の風格を場中に漂はしてゐた、観念の分裂と痛々しく闘ふ生活的な画家といふところだらう。
○棟方寅雄[#「棟方寅雄」に傍点]氏――『人々』北方のインテリゲンチャ[#「インテリゲンチャ」は底本では「イテテリゲンチャ」]のやうな青年がならんだ絵だ、この人の作品には何時も強いヒュマニティがあつて好感がもてる、若い世代のリアリストとしては画風の上では古いが、作意の上では新しい。
○北川民治[#「北川民治」に傍点]氏――『メキシコタスコの祭日』其他で相当楽しませてはくれたが、この画風で日本の現実を描き得たらすばらしい、然しまづそれは不可能に近い、形式といふものは、そこに内容的に盛りあげる現実の種類によつて、最初の形式のまゝで保ちきれないものである、氏は旅行者であるかぎり、メキシコの現実を生々しく描くことが出来た、(それは真個《ほんと》うのリアリティとしての描法でなく、異国主義的見方としての写実性である)然し日本へ帰つてきた北川氏は、その瞬間から異国主義者を停めねばならない、旅行者を停めたのだ、色調や、画風の一切の組立を新しくしなければならない立場に立つ、外遊してきた先方ですぐれた絵を書いてきて、日本に帰つてきた途端に一切を失つた画家が少くない、環境に沈潜して、客観的視野を失つたためである、この異色のある自由人北川氏に、更に異色のある態度の確保をこそ望みたい。
○伊藤継郎[#「伊藤継郎」に傍点]氏――描く対象に対する偏愛はかまはない、しかし色調を固執することは誤りである。対象に依つて色彩は必然的に変化してゆくものであるし、それを怖れる必要はない、前回のものにこの種の固執があつて、粗雑な画面の扱があつたが、今回の出品画にはその危険は去つたやうだ、『鳩を配した裸婦』の写実力は明日へのたくましい進発を約束したものがある、仕事は困難になつてゆくだらう。然し洗練された自我を盛りあげるために、画風も自分のものを既に樹立した感じである。
○竹谷富士雄[#「竹谷富士雄」に傍点]氏――特待である、『夏』『海の女』では『夏』に詩味豊かなものがある、突込んである割に、映えないのは作者の心理に停頓があるからだ、色彩の重ねの効果を計画の中で軽蔑しすぎた感がある、近代感覚としても先走つた軽跳なモダニズムを排して、重厚で暗鬱な時代の色調を表現してゐるために、実感的である。
○福島金一郎[#「福島金一郎」に傍点]氏――他人は福島氏を目してボナールの画風の追求者であるといつた風に解してゐる、然し私はさうは思はない、既に画風に独特なものが芽生えてゐる、熱帯地方の蝶の翼にみる色彩の純粋さを思はせる美しさがある、その意味では福島氏は観念を美しくカケ合した画風であるし坂本繁二郎氏の場合には、観念を美しく叩き込んだ画風と言はれるだらう。もし福島氏にして強ひて新しさに行かうとせずに、自己のために朽ちるといふ作画態度であつたなら、もつと度胸のよい仕事と、独自性が生れる筈である。
○吉原治良[#「吉原治良」に傍点]氏――『窓』我々を目醒めさせるやうな刺戟的な態度ではないが、却つてさういふ温和な方法の中で、我々を捉へる魅力的なものをもつてゐる、新しがるためにシュールリアリストになつたのではない――といつた真剣味を吉原氏の作品から受け取ることができる。
○浪江勘次郎[#「浪江勘次郎」に傍点]氏――『漁楽』『蒼天』等日本的なテーマを描いてゐるが、その企ては判るが既に仕事が限界的であつて、明日に期待ができない、何故といふに、テーマが日本的であることは大いに賛成だが、テーマを取り上げる前に、テーマに対する抽象的な理解を割切つて、科学的な分析を与へなければ、筆をとつてはならないからである、日本的テーマはそれを描くものが近代日本人であり、それを観る者が近代日本人であるといふ事実を無視しては、徒らに歴史に対する追従者の絵画であるといふ規定を与へられてしまふだらう。
○梨本正太郎[#「梨本正太郎」に傍点]氏――『潟の見える花畑』この人の絵をとりあげる批評家はおそらく私位なものだらう、この人とは何の面識がないので年齢などはわからないが、その絵から受ける感じは、作者は五歳の赤ん坊でなかつたら、百歳の老人が描いたものにちがひない、他の批評家が問題にしないだらうといふ私の言ひ方は、この人の絵は外見的にはアカデミックな一切の形式を完備してゐるから、軽忽な評者は『古い』と一言で言ひ切つてしまふだらうからである、五歳の小児の感能の世界は人生の薄明期を彷徨する世界であり、百歳の老人の世界は人生の薄暮に住む哀愁が漂ふ、梨本氏の作品はさういつた感覚的な蔭の多い美しさの蓄積されたものである。
○石井万亀[#「石井万亀」に傍点]氏――この作者の前衛性を見究める場合には、作品の線や色に就いての親切な客観的態度を批評者にとつて必要とされる、若いシュールリアリストは、線の整理や型の思ひ切つた飛躍を石井氏に求めてゐるやうであるが、私に言はせればシュールに新しいも古いもないのである、石井氏は若手のシュールに言はせれば古いシュールであるかも知れないが、封建性や伝統性への反逆と格闘をこの派の生命とするならば、私はむしろ古いシュールリアリストに新しい現実の再現をこそ期待するものが多い、石井氏の感覚の画面上での処理は決して消極的ではない、洗練されたものである。
○高岡徳太郎[#「高岡徳太郎」に傍点]氏――『山』色彩は悪いが、全体的に何か魅力的なものがある、色彩の悪さに問題を抱含させてゐるからであらう、美的享楽を画面が我々に与へはしないが、混濁した現実が我々を美に反撥させるとき、往々我々を麻痺させることがあるが、その種の醜がもたらす快感がある。
○佐伯米子[#「佐伯米子」に傍点]氏――この人はお家の芸に隠れた感がある、この人の女性的な繊細な線は、曾つては日本の作家の男性的な力に対抗するほどに、デリーケートに活躍した時代があつたが、今はその面影もない、この人には作家意欲の高さはあつても、たくましさがない、画面に喰ひ下る執着の乏しさがある。
○熊谷守一[#「熊谷守一」に傍点]氏――『牡丹』は出色の作である、この小品は人間の精神の高さに於いて、こゝでは種として道徳的意味ではなく、自然観察の上の精神的高さに於いて、極限的なものを示してゐる、各人はその究極的な意味に於て美を語り尽さうとするものであるが、熊谷氏の小品『牡丹』では現実の豊饒化が企てられ、『絢爛美』に相当する現実が描かれてゐる、他の二点は既に私の頭の中にある熊谷氏の作品といふ概念のものであつたために『牡丹』のやうな新しい感動を与へなかつた。
○野間仁根[#「野間仁根」に傍点]氏――良い意味での爽快性、悪い意味での職人性は、『夏の淡水魚』の作である、野間氏の懐古展で見た実力はこゝでは見られない。
○中村暉[#「中村暉」に傍点]氏――彫刻『少年道化』の良心的態度は支持されていゝものがある、作者の感情の美しさが無条件的に作品に現れてゐる、芸術家といふものは結局は精神上の叡智に依つて勝負けが決まるものであるから、中村氏のやうな聡明な行き届いた神経の下につくられた作品は最後的な勝に帰するだらう。
○渡辺小五郎[#「渡辺小五郎」に傍点]氏――『膝をつく女のトルソー』は中村氏と同系列のヒューマニティの作家であつて、塊りをやかましくいふ彫刻界では反対者も多いだらうが、私はかうした繊細な態度を支持したい、彫刻家が土方の一種であるとすれば渡辺氏のやうな脆弱な精神は軽蔑されるだらうが、そのモロさに美しさがある、ガンガンと叩きつけたタッチだけを見せつける作品は嫌である。
○河合芳男[#「河合芳男」に傍点]氏――『女人像』の神経は渡辺氏に較べては太い、然し全く反対の立場にあるものではない、感情の切断面の美しさともいはれるべきものがある、形式美への追従を避けて、もつと圧縮した現実といふべきものを見せてほしかつた、相当に高い技術をもつてゐるのであるから今度は技術を殺すことに依つて迫力がつく筈である。
○川崎栄一[#「川崎栄一」に傍点]氏――大作であつたが、肝心の距離感が喪失してゐた、テーマの上では難はなく、意志と恐怖と哀愁とは現代の三つのテーマとも言へるものであるが、川崎氏の群像はその時代的な象徴を語るものであつた。群像としての像のつながり関係も自然なまとめ方である。
○長谷川八十[#「長谷川八十」に傍点]氏――一見粗雑なやうに見えてゐて、案外デリケートな落着いた作品である、動的なものは、作者の感情の推移の表現であるが、動的な形態を巧みに固定化し制約して効果をあげてゐる。
○渡辺義知[#「渡辺義知」に傍点]氏
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