る。
桂月氏の作品のうちの『この雪に爺や何処より帰り来らん――』といつたホロリとさせる作品は、古い南画フワ[#「ワ」に「ママ」の注記]ンの共通的なホロリとさせるところなのであつて、決して新しい時代に承認させる何ものもない。老年輩者が俗によく言ふ人情に脆くなるといふ意味は、さうした意味の感傷性がそれである。その感傷性は老い先の短かい人間が、感情の余燼としてやつとの思ひで取り戻すことができた、感情の小さな興奮なのである。日本画家のうちでもつとも現在活動的な作家には、年輩を超越して、この種の老年の感傷に捉へられてゐるものは全くない、沢山の日本画家が現はれて、その大部分が没落してゆくのは、人間の感傷性を作品に加へて或る期間はそれでも済むが、永い期間には、その感傷性そのものに敗北してゆくのである。松林桂月氏の作品の個別的には、その感傷に敗北してゐる作品と、それを克服してゐる作品とがあるが全体的には桂月氏の作品的な温情は、その写実態度の冷酷な中に、隠されてゐるやうな作品で優れたものが多い、人物にかはるに鳥類をもつてきた場合に却つて低い感傷は消えて、高い感情が画面に溢れてゐるのである。
これらの作品から受けとられるものは、松林桂月氏は非常に人情家だといふことがよくわかるのである。竹、蘭のやうな長い葉、曲りくねつた松の枝、名もない雑草、木の実、蔓草、これらの自然物は、到底絵にもならないやうな状態で、混み入つた生活をしてゐる連中なのである。蔓草が竹にからみついてゐると、竹は松の木の枝と枝との間に体を押し入れて、その先端をふるはしてゐる。そこの隣りには木の実があつて枝は竹にもたれてゐるといつた、これらの自然の生活者達は、風露の中を生きぬいてきた、弱さ強さを露骨に示した始末にをへない、手のつけられないやうな混み入つた連中なのである。もし桂月氏に作家的愛情がなかつたなら、これらの樹木、雑草、鳥類たちはそのあまりに互に錯雑として生活してゐるといふ意味で、画題としては決して画家に喜ばれる連中ではないであらう、もつと見た儘で絵になつてゐる自然そのものが画家の労力を節約してくれたやうな、整理された画題の自然物は他にいくらもあるのである。画家がたゞそれを写生さへすれば、画面も整理されてすつきりするやうなものもあるのである。然るに松林桂月氏の場合は、その写実精神と氏の技術的密度の高さの一致を、決して楽な画材に求めずして、とかく黙殺され、顧みられもしないやうな、自然の一隅にある雑草をさへ、或は小さな樹の枝などの運命の姿を見極めないでは済まないといつた態度にすすめてゐることは敬服せざるを得ないのである。もしこの写実態度を自然物ではなく人間社会に当てはめた場合には、描写の細かさは、人情の機微の細かさに当てはまる、私が桂月氏が人情家であるとかないとか断定的に言ひ得たのも、氏のさうした作品の手法上の態度に現はれたところから言つたものである。自然観察の粗暴な作家が多い折柄に私は松林桂月氏の綿密な写実精神と自然対象に対する作家的愛情といつたものを支持したいと思ふ。
『花宵花影』(紐育万国博出品)のやうな作品では、我々は時代的に世代的に、これ以上の日本画の伝統と写実的手法の継承者といふものを、松林氏以外に他にもとめることが不可能だと思はせた作品であつた。殊にその作品が対外的な意味をもつてゐるだけに、松林氏をその出品者の一人に求めたといふことは適当な選であつたと思はれる。紐育博の出品顔触に対しては、その作品は当時問題にしようとせず、人選を兎角の問題にしたやうであつたが、あゝした海外に送るといふ特殊的事情の下にあつては、余程の人選の慎重さは勿論であるが、さりとて僅かな海外出品者をもつて、我国画壇の全部を語らせようと慾張るときに無理が出来るのである。松林桂月氏の『春宵花影』は題材的にも桜花を扱つて適当であつた。然も桜の花を過度にロマンチックに外国人に画いて見せる作家はザラに居る筈である。桂月氏の作品はその態度の厳格さと、題材そのものがもつてゐる情趣とが、ほどよく調和的で外国人に見せるには、うつてつけの作柄であつたやうである。外国人といふのは始末に終へない現実主義者の代名詞のやうなものである。東洋的神韻といつたものは、東洋的抽象的表現をもつてしては絶対に彼等に伝へることは不可能なものなのである。本質を玉堂の『鵜飼』や関雪の『霜猿』や大観の『夕月』の余韻の多い作品は外人の理解の範疇の外に出る。桂月の『春宵花影』や古径の『雪』のやうな写実的手段でなければ西洋人の悟性中心的な考への中に侵入することは不可能だと思ふ。しかも桂月氏はその桜の花を決して明るく描かなかつた許りか、陰気にさへも描いてゐたことは、東洋の詩と夢の国としての『日本』の現実的な是正として成功作だといはなければなるまい。更にこれに『蔬菜図』のやうなものを添へたら一層外人の理解を早めることができよう。この乱雑に置かれた蔬菜は、その配置の自然な状態の中で、よく個々の物質性と個々の性格とがよく生かされた作である。日本に沢山のテクニックをもつた日本画家がゐる。しかし西洋人の嗜好品であるアスパラガスを写生して送つて、西洋人の食慾を唆るやうに描ける作家が幾人ゐるかちよつと疑問だ。若い連中はこれを芸術的に描くだらう。しかし決して外人の食慾をそゝるやうな作ができず、却つて桂月氏のやうな年輩作家がその実感を巧みに出すであらうと思ふ。これは皮肉な例ではない、作画の上の真の実力の発揮は長い年期を重ねた強い洞察力をもつた眼が必要なやうである。松林桂月氏の作品の実力はさうした意味の自然洞察の逞ましさから生れたものである。
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堅山南風論
自然洞察の徹底
堅山南風論の書き出しは、堅山氏の人格論から入つてゆくのが至当なやうである、また世間でもさういふ論じ方をしてゐる、しかし世間で散見する堅山南風論が南風の人柄を賞めるといふことをやつてゐる間に、もう頁を喰つてしまつて、肝心の南風の絵の本質に触れないでしまふといふ場合が非常に多い。都合の良いことには、筆者は堅山氏と逢つてゐない、したがつて『対座して氏の話題に耳を傾けてゐると何とも言ひ知れぬ人間の温かさに包まれる――』といつたやうな批評はできない。筆者は斯ういふ意見を平素もつてゐる、芸術家で人間味のないものはゐない、少し位人が悪くても、良い芸術品を産む人に頭を下げる、人が良くて仕事をしない芸術家があまりに多すぎる、堅山南風氏は『人が良くて芸術が良い』問題はそこにある、人柄と芸術とが一致してゐるといふことは確かに完全なことにちがひない、一度氏に面接した人は、きまつて氏を尊敬し讃めそやす、人との間に垣を設けない氏の人柄に好感を持つ、ある美術通が、日本画壇の好人物三点を述べて、堅山南風氏は、三本の指に折られるうちの一人だと言つてゐた。
一に荒木十畝氏、この人はヒネクレ屋ではない、しかし相手の出方次第で、どのやうにでも曲つてでる、しかし根が実に人柄が良い人である、次には池上秀畝氏少し軽忽なところがあるが人が良い、それから堅山南風氏で、堅山氏は『純粋に人が良い』と日本画壇好人物三羽烏だとその人は言つてゐた、南風氏が『人との間に垣を設けない――』といふことは特に驚ろくべきことではないので、氏にとつては対人関係に於いて『武装する時代』はすでにすぎたのである。しかし南風氏がその製作にあたつて、『自然と彼』との関係に於いて、この男ほど垣を設ける作家はゐないのである。
その絵をみればわかるやうに、第一にその構図の上でも、徹底した構図主義者であるといふこと、しかもその徹底ぶりが完璧的であるために、ちよつと見[#「ちよつと見」は底本では「ちつよつと見」]には作意もなく自然に出来てゐる、描けてゐるやうに見えること、その実作者自身の心境は、世間でいふやうほどにも、単純でも素朴でもないといふことである。
彼は描く自然に対して、人間的な厳格さをもつてたち向ふ、この種の作家は、自然の美しさに極度にヤキモチを焼く作家に属してゐる、そのヤキモチの焼き加減は、死んだ速水御舟ほどにもひどくないが何かしら『人間的表現』を求めないではをられないといふ点では良く似てゐる。
南風氏の絵からは、ナイーブなものを受けとるといふよりも、ある『辛辣なもの』をうけとることが多い、南風氏は人柄が良いにちがひない、しかし絵そのものは実に『人が悪い』絵である、どういふ風に人が悪い絵を書いてゐるか、これをいちいち解くには、南風氏の神経の密度から論じていかなければならない、それでは大変だ、そこでそれを短かく要約して言つて見よう。
南風氏の絵の人の悪さは『日本画の伝統をぢりぢりと少しづつ破つてゆく、その方法の人の悪さ』である。川端龍子や、近藤浩一路のやうに、短腹《タンパラ》の気の短かいやり方で、日本画の伝統や封建性を打ち破らうとは、南風氏はけつしてしてゐない。
南風氏は、評判作『朔風』の飛んでゐる鴨の群のその先頭を飛んでゐる一羽の鴨のやうに、ただ着実に『羽を動かす』だけである、しかもこの真先にとんでゐる鴨は、しぜんな羽の動かし方で、飛翔力の強い、余裕のたつぷりあるすすみ方であつて、それにつづく鴨は後れてゐる鳥ほど、前の鳥を追ひ抜かうとして焦燥してゐる、南風氏作『朔風』は単なる屏風絵ではすみさうもない、日本画壇のセリ合ひを諷刺したやうな絵である。
堅山南風氏の弟子であつたM氏が、南風氏より先に美術院の同人になつた、つまり昨日の弟子が今日は先生の絵を審査する立場になつた、封建性の強い徒弟制度的な日本画壇で、どうしてかういふ現象が起きたか、人に言はせれば、美術院の幹部はときどきさういふヒステリー的なやり方をするのださうだ――物の順序を欠いて、お先に先生より偉くなつたM氏は、したがつて仁義の上に於いても順序を欠いてゐた、南風氏のところに訪ねてきたM氏は、立つたまゝ足指で座布団をひきよせて、座つた、弟子M氏の昨日に変る横柄な態度を、南風氏はじつと無言のまゝ眺めてゐたといふことである。この話はいかにも傍で見てゐたやうに筆者に話した人がある、当時の南風氏の苦衷を手にとるやうにその人は! 語るのである。
『いまに見てゐれ!』と忍耐そのものの南風氏の表情まで真似てその人は筆者に語るのである、それはおそらくゴシップであらう、しかしゴシップであらうが、真実であらうがどちらでも構はぬ、如何にも実在しさうな話である、南風氏はその後それかあらぬか、画境の上で、また押しと飛躍では、他の追従をゆるさぬ世界を示しだした、まもなく南風氏は同人となつた、そしてM氏は、東京に居たたまらないものがあつて京都に去つたといふことである。丁度南風氏の『朔風』に描かれてゐる波の上をとぶ鴨の群の、トップを切る鴨のやうに、南風氏の飛翔力は着実となつたのである、弟子と先生との同人の小ぜり争ひといつた小局的なものが南風氏の画業の目標でなかつたことはたしかだ、氏の作『残照』の鵜のやうな超然主義もまた堅山南風氏の生活態度の、側面的な強味となつてゐるのである、勝負を目先にをかず、長い時間の間で決めてゆかうといふ態度である。
堅山南風氏の『残照』と郷倉千靱氏の『山の夜』とは良い対照である、南風氏の自然に対する向ひ方といふのは、自然を素直にうけいれ、特に自然と妥協をすることさへも恐れないが、結局は自然を自分の膝の下に組み据へてしまはなければ気が済まないといふやり方である。
郷倉千靱氏の場合は、自然に反逆する、自然を物をもつて掻き乱すといふ積極性が終始する。最初の動機から自然に勝たうとする、勝つこともあるだらう、だが千靱は最悪の場合でも自然と人間とは五分五分の勝負、引き分けであつても、負けたくないといふ強情さがある。
南風氏を一言にして言へば、自然に対する人間の勝ち方を『目的のために手段を選ばない――』といふ方法をとつてゐるのである、両者の画境の相違を、最も良く示す証拠は、画面の空白のあけ方を見ればはつきりとする、千靱氏は画面の白い部分(描かれて
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