ゐない部分)をできるだけ少くしようと努める、自然の空白の存在することをゆるさないのである、それに反して南風氏は、空白だらけの絵を描くことが彼の特長となつてゐる。
画面の空白とは、物理的に言つても、哲学的に言つてもそれは『空間』と呼ばれるものである、空間に時間があることを証明するには、そこに一本の枝にせよ、一尾の魚にせよ、一つの波にせよ、何かしら時間の実在することを知らせるやうなものを描かなければならない、しかし南風氏の絵のやうに空白が多く描くものの面積が少ないことは、それだけ空間によつて、時間が押しつめられ圧迫されることになる。
つまり画面に空が多いといふことは、非常に困難な事業であるわけだ、南風氏の画面の処理の仕方はそれこそ彼の人柄のやうにも、自然に対しては謙遜で、最も消極的な態度でもつて、最も積極的な答を出さうといふのである。
試みに彼の絵を注意して見給へ、ボンヤリと抜けたやうな感じの空間の多い絵でも、そこに描かれてゐるものが、極度に神経を緊密にした、細心そのものに丹念に描かれてゐることを発見するだらう。全体を把へるには細部の描写を完全に果すといふ以外に方法がない、南風氏はそれをちやんと心得てゐるのである。ボッと抜けたやうに見えてゐて、その絵の部分の細[#「細」に「ママ」の注記]描写によつて、充分に絵に締りをつけてゐるのである、龍子の絵はその気魄に於いては、雄大なものをもつてゐるが、その画家の心の動き方の順序といふものを吟味してみると、内側から外側へ拡げてゆくといふ『外延的』なやり方である、したがつて落漠感があるが、結局は絵に締りを欠く、南風氏の絵はその逆の心理状態を辿る、外側から内側に締めてゆくといふ『内延的』な描き方をとつてゐる、しかも南風氏の奇妙なところは、画面の『平面』といふことを良く心得てゐることである、画面に強ひて立体感をつけようとしないで、平面のなかで巧みに立体感や、絵の深みをつくりあげる才能は彼独特なものがある。
しかしこゝまで平面芸術にコクをもたせるやうになるまでには、南風氏のこれまでの技術的苦労は並々ではなかつたであらう、昭和十年の上野松坂屋で開かれた第三回美術院同人展出品の『残月』は凄愴の気が満ちた力作であり、それは南風雌伏期の冷徹な思索時代のものであらう、それと傾向を同系列にをかれるもの『残照』をみても判かるやうに、その樹木の枝のなんと一とひねりも二ひねりもひねりまくつた描き方であらう、決してクセのない画家とは言へないのである。しかしその猛烈な癖を、平静な状態で観者に見せるといふ力量が、南風氏の力なのである。
『残月』といふようなクセの多い絵から最近の尚美堂展の『冬暖』といふやうなまことにクセの抜けた平和そのものの絵を描くやうになつた路莇はなかなか興味ぶかいものがある『冬暖』はいはゆる気のをけない描き方をした『小品』ものではあるが、作意が複雑なことと問題をもつてゐるといふ点では大作ものよりも、かうした小品ものに多くの作家研究の興味がつながれる。
冬の温もりの中に、二羽の鴨が凝然とうづくまつてゐる絵であるが、一羽は顔をむきだしにして、一羽は羽の間に顔を突込んでゐる、そしてこの二羽の鴨は決して暖かさうには描かれてはゐない、周囲の状態も荒涼としてゐて、だから『冬暖』と画題をつけられてゐても、自然としての冬の温もりとは解釈できないのである。
一言にして言へば、この『冬暖』なる絵はなにもかにも寒々と描かれてゐるのである、それでゐて何処かに『冬暖』と作者が画題を附した、その理由と覚しいものが、何かしら『暖かいもの』が感じられるのである。それは何処から来てゐるか、それは自然観照の態度で、描く対象を突放したやり方が却つて成功をさせてゐるのである、二羽の鴨には生きた血が通つてゐて、じつと冬の中で静止してゐるところは、鴨の体内的な温かさをさへ観るものに想像させるといふ、南風氏一流の感覚的な方法が生かされてゐるのである。
往々にして南風氏の批評は、その表面的な批評で終る場合が多い、作者の洞察点にまで批評家が触れてやつて批評をする以外に親切な批評はないはずである、したがつて彼の作品に対して世上区々としてまとまつてゐない、帰するところは南風氏の人柄が良いといふところに落ちる、或る人は南風氏の三徳として『決して人に逆らはない』『道に逆らはない』『人に先んじない』と数へあげてゐる。
しかし果して南風氏をさうした表面的な観察だけで済ましてをいていゝであらうか、人にさからはないといふことは、必ずしも美徳にはならない、南風氏は南風氏一流のさからひ方がある、その方法は彼だけのもので他人の察知できないものである、道にさからはないといふ訳は、いかにも彼が中庸主義者、合理主義者、功利主義者のやうに思はせがちであるが、彼が他人や芸術の路にさからはないといふことは、さういふ打算から出たものでもないやうだ。
或る人は彼を『悟り』きつた男のやうにいふ。しかも彼の描いてゐる絵をみればわかるやうに、悟りどころか、彼位芸術上で悟りに徹した男は珍らしい、然も彼は自己の限界といふものをよく心得てゐる、その限界内で自己の完成を果たさうといふ慾望のまことに高いものがある。彼の仕事が『自然に』見え彼の人柄が『悟り』に感じられるのがその点である。彼は自己完成のやり方では、自分の描く絵と一緒に発展してゆかうといふやり方である。
人格を超越して、絵の上でだけ人格的な絵を描かうとする画家も少くない、彼の場合は人間的苦悩を画の製作の間でやりとげてしまふ、それが果たし終へない間は絵が停滞することも尚怖れないといふ現実的な粘りがある。
絵の上でゴマカシといふものをやらない、さういふ誠実さが、南風氏のかはれるところであらう、彼は花鳥の名手と呼ばれ、また『魚楽図』『魚類十種』『鱗光潜む』などのすぐれた作があるところから魚の名手ともいはれてゐる、いままた波をよく描き、波の名手ともいはれさうだ、美人を描きだしたら美人画の名手にもなれさうである、しかしそれは画題に依つて一人の作家をきめつけてはしまへないものがある、南風氏は定めし、これまで描いたことのないものを新しく描いても、この描写の態度の『誠実さ』の故に、それを美事に描ききつてしまふだらう。ゴマカシのない製作態度に依るときは、如何なる題材もまた完璧化されるだらう、昭和十一年第一回帝国美術院の出品『ぼら網』は、重厚な厚塗りの立体と、群青を生かした新興作家、前衛作家にも劣らぬ色彩的に豊富な好評作であつたが、こゝでは色彩論を次の機会に譲つて、そこに描かれたものの、作者南風氏の自然観照の緻密さと、その解決の仕方を述べよう。
『ぼら網』の中に追ひつめられた魚達の混乱を描いたものだが、魚が驚愕の果ての混乱の状景といふものには、秩序のないのが普通とされてゐる、しかし南風氏は魚たちを混乱させてはゐるが、この全体的な混乱を、いくつもの小さな部分に分けて、混乱させてゐる、ちよつと見には大きな混乱にみえるが、仔細にみると、小さな部分の魚達は少しも驚ろいてゐない、小さな列をつくりながら整然と逃げ廻つてゐる、堅山南風氏が自然観照の細部に対しての洞察力の透徹を最もよく語るものであらう。
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郷倉千靱論
郷倉千靱氏の現在の作家的位置が、日本画壇のどのやうな位置を占めてゐるだらうか、そのことに就いて、分析したり観察したりしてみることは、様々の問題を提出する、こゝでいふ画壇的地位といふのは、画壇での政治的政策的地位のことをいふのではない、画が拙くても、なかなか政治的位置を築きあげることの巧みな人もある、こゝではその種の位置ではない、批評家の批評は、結局に於いてその作家の作品に出発して、その作品に終れば批評の目的は達せられる、党派とか、政略とかいふ作品以外の色々の附属物を気にかけて、それで批評眼を曇らすことは批評家の不幸に停まらず、作家にとつても不幸と言はなければならないだらう。
郷倉氏の日本画壇での位置は、氏がこれまで反世俗的な方法を、作画上に加へることに依つて築きあげてきた、案外に滋味な位置と解されるべきであらう。氏はその小品、竹とか鳥獣とかの、日常的な作品にさへも、何等かの新しい試み、反世俗的な方法を加へなければ気が済まない性質である、院同人展への出品『寒竹に小禽』に対して、ある批評家が斯ういつた『近代的感覚をもつた作家である、直線的な鋭敏性を示してゐる――』竹といふ画題は、おそらく日本画始まつて以来の画題的古さをもつてゐるものにちがひない。
竹はあらゆる画人が、あらゆる角度から、その姿態に於いても、殆んど描き尽したといつても良いほどに、手法の変化の余地のないほどにも描かれてきたに違ひない、その竹に郷倉氏が近代的感覚とか、直線的鋭敏性をもつて描いたとはどういふことを指していふのか、この批評家も、こゝまでは言ふ、だが例によつての印象批評で、具体的批評を行つてゐない。
竹などといふ古くからある画題に取組んで新しい仕事をするといふことは、新しい画題に新しい仕事をするよりも、幾層倍も困難が伴ふのである、郷倉氏はその作品の小さなものに案外な問題作が少なくない、『寒竹に小禽』とか、一哉堂展の『恵春』の試みとか、第十三回日本美術院『筍』とか、昭和四年の『寒空』といつた画壇で、さう喧ましく言はない作品に、却つてピカリと光つた作家の前進性や、郷倉氏の片鱗を発見することが多い、小品物には、展観制作の大物とはちがつて、気|隈《ど》らないもの、作家の日常の勉強ぶりがよく現はれるからである。郷倉千靱氏の作風位、動揺極まりない作風は少ない、一作毎に加へられてゐる新しい試みは、時には露骨なほどに、その新しい計画を誇張してゐる作品さへ見受けられるのである、世俗的には作風の動揺といふことは、其作家の地位の動揺といふことと同意語であつて郷倉氏の場合は、それに反して作風の動揺を引つ提げて、こゝまでひた押しに押し切つてきたのである、それはむしろ奇蹟的な感じさへ与へる、作者が自分の画風といふものを変へずそれに安定感を与へるといふことは、世俗的には得策なことである、それを敢てせず一作毎に飛躍を求め、必然的に現れてくる作風の変化を怖れないといふ態度は、作家の勇気と呼ばれていゝ性質のものだ。同時に郷倉氏自身が自己の実力といふものを確信して仕事をすゝめてきたからでもあらう、作風の動揺の底に失はぬところの『実力』が郷倉氏の現在を、社会的保証の中にをくやうになつたと解すべきであらう。
作風を変化させるといふ勉強の方法を求めるといふことは、実力のないものにとつては最も危険なやり方である。西洋ではピカソがカメレオンと悪口を言はれた程、画風を変へてきたが、彼が今日の位置を保つてゐるのは、彼の本質的な実力が、最後的勝利を得たからである、郷倉氏の作風の変化は、ピカソ的変貌の仕方とは勿論ちがふが、日本画家としては珍らしく、作風上の飛躍を、大胆に試みる作家である、しかしこの変貌時代は漸次去つて、十二年の院展『麓の雪』十三年の院展『山の夜』には、作者の心理的安定を、その作品から感ずることができる、郷倉氏は『山の夜』あたりを一転機として、実力発揮の時代に入つたものとみて誤りがなからう、言ひかへればこれまでの郷倉氏は、その自己の実力の出しをしみをしてきた作家といふことも出来るのである、我々の作家にのぞむものは、その野心作である、実力発揮といふことの本質的な言ひ方は、さうした野心作に作家が入つてから用ひられるべきものだらう。
郷倉氏は、画風の上ではいかにも感情的、感性的な仕事をしてゐるやうに、我々の眼に映ずる、しかし実はその反対のものが、氏の認識手段として多くはたらいてゐるのである、つまり知性的なもの、悟性的なもの、が制作にあたつて重要な働きをしてゐる、郷倉氏が仕事の上で、奔放性を発揮しようとしても、悟性がこれを強く押へてきた、近来それが人柄の上にも、年輩の上にも、成熟期に入つた感がする、今後は何の懸念もなく、感性も悟性もその赴くまゝに自
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