様にもつことができたといふ観者の立場からさういふのである。桂月氏の描写の執着的な態度には、現実を顕微鏡的に細かく見てゐるといふたくましさがあるが、一面細密描写即写実性であるといふ不自由な考へ方が解放されたところがある、細密描写が写真的描写に堕してゐるのが現在の日本画である、それを避けて新しい方向と写実主義を日本画に於いて確立するには、絵の部分に於ての細密描写が、その細かければ、細かい程綜合的な大きな量と面とを産み出さなければならないだらうといふ個所に問題の解決点がある、桂月氏は細密描写の追求に於てその意味で問題の作家と言へるだらう。
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松林桂月論(二)

 世間ではよく『伝統』といふものの値打や、美しさを云々する。それが国家であれば、その発生の古さを、芸術であればその伝来の長さを、価値の高いものとされる。日本画の場合は後者である。しかしその値打の問はれ方といふものを吟味してみるときかなりアイマイなものが多いのではないか、日本画は、殊に南画形式のものは、その形式の古さを、現代の中に復活してくる力量を示せば、示すほどに賞讃されるのである。或は言ふかもしれない、南画形式といふものは、そんな形式の古さを引つぱつてくるものではない。現代を、そのまゝ生かすべく、現代的手法がいると、しかしそれは理窟といふものである。その理窟をいふ前に、あなたはそれでは、昔からある伝統的手段をどれだけ現代の中で応用してゐるか――、自信をもつて言へるかと反問してみたい、多くの南画家や、広い意味での日本画家は『古いものを生かしてゐる――』といふことを、それほどにも自信をもつて言ひきれないであらう。
 一口に伝統的なもの――は立派だとはいふが、その古めかしさを現代の中に、停めるといふことそれだけで大変な事業なのである。しかも一層困難なことは、その事業は、その事業に携る生きた人間とともに存在するといふことである。日本画の伝統は、成程古いかもしれない、しかしこの伝統の良さを伝へる生きた手段としては、生きた人間が行ふより他に方法がない。その人間がたかだか五十年乃至六十年の寿命よりもつてゐない、伝統のよさ、立派さ、美しさを証明するには、これを伝へた書物や、作品が証明する場合があるが、さういふ証明の仕方は問題とはならない。最近松林桂月氏はある新聞の素人芸術、紙上講座で『南画の話』をしてゐて、いろいろと簡単に南画の初学を解いてゐたが、その最後にもしなほ研究して山水花鳥にまで進み度い人は、有名な書『芥子園画伝』でも参考するがよい――といはれてゐる。桂月氏のいひ方は、古いいゝ手本があるから参考にせよといつた軽い意味の言ひ方であらう。
 しかし専門的な言ひ方をすれば、伝統のうまみを知るには、一冊の『芥子園画伝』よりも、一人の生きた松林桂月氏の方がはるかに研究対象となり得るといふことができるのである。日本画壇では、他人の作品の批評に忙がしく、また画集からの摂取で忙がしく、現在生きて活動してゐる『画集』を正統に視るといふことをしないやうだ。こゝに松林桂月といふ生きた画集があり、大観といふ生きた画集がある古径といふ生きた画集がある。日本画といふものが充分値打のあるもので、後世に伝へなければならない性質のものであるとすれば、その伝承の過程に死んだ画集を問題にするよりも、生きて現在活動してゐる画集をもつて問題にしなければいけないやうだ。大観や古径や、桂月や、其他の伝統的な仕事を固守してゐる作家に対し、一口にそれを古いといふことは簡単である。しかし後進者たちは、この人々の古さを認めてゐるといふことで、自分達が新しいなどと考へてゐたら大変な間違ひが起るといふことである。荒木十畝氏が或るところへこんな文章を書いてゐた――『若い画家などに、自分の進歩の早さを自慢する向きもあるが、その程度の進歩通達は、我々も同年の時既に成し遂げた事であつて、駈足でいへば私などは競技場を六十周もしてゐるのに、その半分の三十周位で、やれ老人は足が遅いのなど高言するのは慎む可きではないか、それより息ぎれしないやうに、日々力を蓄へて、落伍せざらんやうに戒心するを要する――』と若い天才主義の画家に苦言を呈してゐた。いちばん恐ろしいことは、若い連中が、その生理的な、肉体的な若さをもつて、自己の芸術の若さ、進歩性、新らしさと解してゐることが多いことである。これは一つの若い作家の共通的な起し易い錯誤といふことができる。
 松林桂月氏の画業になど対して、若い画家中批評家は、一口でこれを古いとか伝統的だとか評してこれに反撥することは自由であるが、日本画そのものが、既に伝統的なものであるといふことは、既定の事実なので、この既定事実を承認しただけで、これをもつて批評である――と考へ違ひはできないのである。この既定事実の上に立脚して、そこから何かを抽き出すといふことが、絵画上の出発なのである。
 若い批評家や作家が、日本画の封建性伝統性を否定することが強くて、肯定する力をソロバンに入れない場合の、所謂、先輩、大家の仕事に対する、無理解は、早晩十畝氏ではないが、マラソン競争の三十周位から、ボツボツと落伍を始めるのであらう。
 私が画壇の先輩に対する後進者の態度といふものを、ここで問題にしてゐる理由は、先づもつてその態度を設定してからでなければ、松林桂月氏の作品に対する評価は慎むべきであるからだと思ふからである。何故なら横山大観の画壇的地位を、ことごとく彼の政治的手腕に帰するといふことが滑稽であるのと同じやうなものである。大観の作品には少しは見所のあるものもあらうからである。しかもその少しばかりの見所のある作品で奇怪なことには、画壇の大御所的地位を保つてゐるといふことが更に不審といへるだらう。それでは少し許り良い作家ではなく、大いに実力的な作家であるのかもしれない。その間の事情が不明瞭のまゝで、大観の地位は保たれてゐるのである。しかも人々は何等大観の本質を解析しようとしない。さうした事情と同じやうに、松林桂月氏の画壇的位置も、その作品の地位は、その作品の本質を語られないで、保たれてゐるといふ感がまことに深い、桂月氏がいつか九品庵の展観に出品した『田家雪』といふ作品を、或る批評家がかう書いてゐた『この雪に爺や何処より帰り来たらん、漁の具合はどうだ。孫も子も夕餉の膳にはと待ち居る如し――』この批評は考へてみれば滑稽な批評なのである。日本画壇の批評は大体に於いて、この程度でも済むのであるし、通用するのである。絵を見て引き出された批評語が『この雪に爺や何処より帰り来らん――』的程度より一歩も出てゐない現状では、これでは作品批評といふよりも感想といはれていゝ、感想としてもかなりに低俗な見方に属してゐる。しかし私はこの批評を頭から笑ひはしない、大体南画形式の日本画は観る者をして『この雪に爺や何処より帰り来らん』的な東洋的センチメンタルに捉へるものが少くないから、桂月氏の『田家雪』といふ作品が、観者をこの種の感傷にとらへたからとして、それが誤りであるとはいはない。大観氏にはこの種の性質の感傷で、観者を捉へるといふ効果がしばしば用ひられる。ぽつかりと竹林の上に浮んだ月が、思はずホロリとさせる場合もある。桂月氏の場合にも、たしかに『田家雪』はホロリとさせる画である。しかし桂月氏の作品を問題にする場合は、『この雪に爺や何処より帰り来らん――』的な作品よりも、もつと冷酷な非感傷的な作品に優れたものが少くないのである。『竹林高士』といつた古淡無慾な主人公を、竹林の下に静坐させるといつた、東洋的雰囲気は、一見無感情にみえながら、東洋独特の悲劇的なテイマなのである。桂月氏が老爺を雪の中をトボトボと歩かしたり、竹林の下に瞑想的な人物を坐らした作品は少くない。しかもこれらは何れも観るものをホロリとさせる効果をあげてゐる。桂月氏の人間観は、従つて『秋景山水』のやうな自然の中にポツリと立つてゐる。或はトボトボと歩るいてゐる人間の様子をもつてよく覗ひ知ることができる。しかしこの人物を描いて観るものを南画風にホロリとさせる桂月氏をもつて、或は氏の人間観の一斑を窺ひ知ることができるとしても、それを以て全部とは即断できない、それよりも点景人物によつて人間観を知り、その他の残されたもので自然観を知らなければならない。何といつても桂月氏の作家的特質は、その描く[#「く」に「ママ」の注記]とした人物によりも、その人物の背後の自然にある。殊にその自然描写も多くの作家が整理をもつて、その方法としてゐるのに、桂月氏は錯雑たる自然を描き切つてしまふといふところに、氏の他の作家の真似のできない特長をもつてゐるのである。
 錯雑たる自然といふ意味は、ありのまゝの自然といふ意味である。そのありの儘の意味と、桂月氏の場合は、他の作家と少しく態度が異つてゐる。桂月氏の問題となるところは、その作品の材料の扱ひ方と、それに併ふところの手法の二点にある。材料の選び方は、全く野放図な状態で、まるで行き当りばつたりに庭の一部や、自然を描いてゐるかの感をさへ与へる。桂月氏の画風は、ちよつと見にはいかにも技術的な技巧的なそれに思はれるが、事実はこれに反して、桂月氏位自然を描くことに、人工的な方法を極度に避けてゐる作家は珍らしいのである。桂月氏の手法は人工的ではないとは言はない、しかし芸術は手法上の人工性を全く避けるといふことは不可能だといつても言ひすぎではあるまい、しかしこの方法が造りものであつてもそれは手段であつて、目的の前には消滅する性質のものだといふことができるであらう。
 満洲国への献上画『月苦沙寒』といつた作品は、その手法も構図も、多分に整理されたもので、その意味で技巧的な作品であり、また従つて作品の佳さもはつきりとわかる作である。しかしこの種の作品ではなく、私のいふ『錯雑たる自然』を描くことの妙手であるといふ意味は、桂月氏がその材料を、殆ど雑草園か廃墟からでも求めてきたのではないかと思はれる場合の作品で、もつともよくこの作者の自然観、人柄、実力、そしてそこには一人の人物も描かれてゐないが、人間観をさへ発見できるのである。私はこれらの作品を非感傷的な桂月氏の作品と呼んでゐるが奉讃展の『潭上余春』とか『春郊』とか『秋晴』などがそれである。殊に後者二点には、手法が人工的であるに拘はらず芸術態度が写実的であるといふ意味で、作者の人間的圧[#「圧」に「ママ」の注記]力がよく現はれた作といふことができる。
 敢て私が桂月氏は廃園や雑草園の一隅を描くといつたのは、さういふ場所を描いてゐるといふ意味でいつたのではない。さういつた意味は、廃園や、雑草園などは、草木に対して、自然の雨露、風雪の加はり方が、もつとも自然な放任されたものであつて、桂月氏の作品のこの種のものは、さうした在りの儘の自然を描いてゐるといつた意味で廃園、雑草園的だといつただけである。同氏のこれらの特長的な作品をみると、松の枝へからみついた細い一本の蔓草があるとすれば、その蔓草は実に丹念に、気の済むほどに捲きついてゐるのである。小さな自然物の生命の向ひ方、動き方は、その蔓草の先端の行方を辿つてゆけば判る。作者桂月氏は、松の枝の屈折の仕方に人工的なものを加へない、描写の上では加へてゐるが、対象の事実を歪曲しない、これらの松の枝は、くねくねといろいろの角度に曲つてゐる。この松の木の運命を語るものは、この幹の形にもあるが細い枝のその曲り方と、行方にも関係がある。桂月氏の粘着力はさうした場合に最もよく発揮されてゐる。そこでは桂月氏の写実力よりも、写実的態度が問題になる。小さな赤い南天のたつた一粒の実が語る、この自然物の運命といふものは、なかなかに興味の深いものがある。桂月氏の作品をみる楽しみは第三者は、さうしたところに求めなければいけないやうに思ふ。また画壇の後進者も、その点を認めなければいけないと思ふ。桂月を論ずる場合には、桂月の写実精神を論じなければならない。写実を除外して桂月の値打は存在しないのであ
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