を見るとき何時も不思議にワシリー・カンヂデンスキーの絵を想ひ出すこの違つた画風の二人をどうして結びつけて考へるか僕自身不思議に思ふ、だがその解決はかんたんだ色の感覚と絵画に扱はれる対象の物質的再現よりも絵画自身の要素の精神的価値を主張する個所に相似たところがあるのだ『蘇洲城裏』色感の唐草模様であり魅力あるコンストルクチオンではないかこゝにまた薄気味の悪い点を発見する、それは『長江遠望』だこれは幽微なる幽玄なる異彩に輝いたものでその描かれた律動的集塊こそ秋田氏の怖ろしい仕事の前兆ではないか、最後に一言支那から帰つた秋田は凡になつて『小田原風景』を描く日本の『フジヤマ』も『松の木』も案外くだらない、支那へ帰つて死ぬことだ。
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美術協会の絵画展を評す
(一)[#「(一)」は縦中横]
第十二回旭川美術協会展覧会は旧山一紙店楼上で催されてゐるが、日本画及び木刻の評は僕の得手ではないから止して、洋画の部に一言する。誰れがその鑑査をしたのであるか知れないが、その配列を一見して採択方針はうなづけるもつともこの選といふものは、その画会を中心としての流れやスタイルを造りあげるといふ場合が、実に多いのである、殊に旭川の美術界がある岐路にあり母体であり発足である現在では、現れた審査の標準といふものに、選者は絶対な責任をもたなければならない、若し今後美術協会風なる、一画風を形づくるやうなことがあつたらずゐぶん可笑しなものだと、選者諸君に一言を呈す。
で今度の画会を見て感じたのは質の点から純なものが少数で、小手先の巧者揃だといふことだ甚だ失礼な申分だが、同人三君の絵はよくあれで臆面もなく出品されたものだと思ふ、僕はむしろ同人以外の新進の連中に好意を懐く、もつとも同人なる名は、一団体の主要なる人々の代名詞であつて、芸術の優劣を意味し評価するものでないことは無論だが、他人の作品を取捨する選者となつた場合には自ら其処には責任を生じてこなければならない。そこで同人諸君に希望するのは後輩の手前もあり責任上、欺瞞だらけの画布は捨て素晴らしいものの出品を期待してゐるといふ僕のいはなくてもよい憎まれ口をいひたくなるわけだ。
▲佐藤熊蔵君 『早春雨後』に肉迫する何物かがある、この筆者が客観的な現在の正確さのままで進めて行つたら、きつと大きな仕事が出来るんだ、写実家として満たされないといふ悩みを発見する『早春雨後』は他の二点に比して、鮮明な態度がいゝ、画は流動をしてゐるし近代人としての叫びがあり僕の助言をしなくても安住する人ではないから自分の道をひとりで開拓してゆける人だ。
▲前田清君 この人の態度は決してあいまい[#「あいまい」に傍点]ではない、やがて現在の境地を脱出すると思はれる、このまま押すすめて、朗かな色調に到達することを期待する。
▲西島英夫君 安井氏張の盛あげた一点は明かに邪道と思ふ『陽春の午後』は真面目でそれでなか/\細心なところが喜ばしい、だが惜いことには満足をしてゐる画が多いので沈滞にある有様だ、もつと凝視こそ望ましい。
▲小野寺松美君 水彩『花』は呼《よび》かけるなつかしみのある画で、考慮の深いすぐれた何物かを握つてゐる人だから勉強次第だと思はれる。
(二)[#「(二)」は縦中横]
▲鈴木秦君 三点の中ではなんと言つても『家と曇』だらう他の二点はずつと落ちるこの二点は既に君としては過去の仕事に属すべき性質の画だこの人の画を観て何時も惜く思はれる点は『家と曇』風な暗い憂鬱な調子のものが精神や色彩の病気にかゝつてゐるといふことであるもつと自分の仕事に感激をもたなければ。また健康にならなければいけない。或大きな悩みに直面してゐるこの『家と曇』は捨難いものである、がいま一歩突入つた沈静な喜悦にみちた暗さであつて欲しい。
▲田中弥君 『風景』は沈着で魅力に富んでゐてすぐれた画だ林君の画風に似てゐる、好きな絵ではあるが消極的に沈んでしまひさうな不安さがある(これは色彩の上の注意ではない)積極的態度つまり個性の強調を希つてやまない。
▲鈴木春路君 君の過去の仕事はもつと真剣であつた『ないぼ風景』はそれよりもずつと落ちると思ふ、この画などは危くごまかしに落ようとする間髪にある、然し過渡期にあるとは言ふことができよう君の為めに純情にたちかへることを希望する。
▲林和君 この人の画風や心境は田中君と類似したものである私の望んでゐるものにどちらが速かに発足し到達するか興味ある二人のいゝ取組と態度である、林君また田中君の評が大体あてはまる、だが五番の『風景』は君の為めに残念だ君の個性を泥の中に投げ棄てたといつた悪作だと思ふ。
▼(同人)野村石太郎君 さて同人の作になるがこの人の作品をみて感ずるのはかうあつさり片づけられゝば芸術なんて言ふものはなか/\楽しみな道楽だと思ふ『君は何を求めてゐるか』遊戯に始まつて遊戯に終つてゐる『君は何に感激してゐるか』運筆の滑らかさに泥酔してゐる許りだ。
▼(同人)関兵衛君 『ポーズ』此女人裸像は模写にしては上手であるしモデルを描いたものとしては拙劣であるし醜い仕事である『玉葱のある静物』この絵に到つては評者は悲鳴をあげる、水彩『見世物風景』を描いた時代の関君は影も形もないといふものだ。
▼(同人)高橋北修君 この男には日本画だけかゝして置きたいのだが日本趣味だけではお気に召さぬらしいだが油絵画家の柄では無い(もつとも本人が描くのは勝手のことだが)日本画『月に戯れる童女の図』はチョッピリ賞めたいだが洋画ときては『油に戯れる男の絵』である『校庭午後』この絵覘《ねら》ひ処が無いとは言へないが詩情から養つてかゝらなければ到底完成に達すること遠しである『風景スケッチ』かうした計画で観衆を釣らうとしたところで無理だ観衆はそんなに馬鹿でない、この絵一種の『戯画』である二点とも君の醜悪な心情を遺憾なく曝露したものだ気品ゼロ。
▼其他の人の出品もあるが紙面の制限の上から後日にゆずり最後に平沢大嶂氏(東京)の特別出品十点を見せて貰ふ『将雨来』『花』等や『港孤松』『雪の夕』等の日本的な氏の仕事の良し悪は私にはわからないたゞ之等からも『拓けゆく武蔵野』や殊に『花園』に共鳴を感ずる感覚が躍如として一面に重厚で沈静な態度が好きだ『苺』また素朴に朗かに感謝に充ちた絵だ。
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広瀬操吉氏の芸術
来旭した氏のために一文
私はいつか本紙に詩集『雲雀』の作者広瀬操吉のことを紹介したことがあつた。二十三日の夕景その操吉が、ひよつこりと東京から私の家へやつてきた。
『近代詩歌』の四月号に彼の詩『鍋焼うどん』といふのがあり宵暗《やみ》の都市に親子の貧しい、うどん売子の熱いアルミニュームの鍋に、彼が渇いた唇をあてゝ『子がしつらへて親がはこぶなり』とせち辛い浮世の味ひを歌つてゐたので私は彼に旭川の鍋焼を喰べに来いと葉書をやつた。
私は彼に土鍋のうどんを喰べさして見たかつたのだ、だが悲しいことには、最近の旭川の鍋は、土鍋の風味はなく、みなニュームになつてゐる。
だが鍋はニュームに化しても、旭川特有の『夜半の濃霧』の中にまよひ出て、風土の立ち食ひをさして見たい。
彼に遭つて親しくその風貌に接して、彼の好んでゐるアンリ・ルッソオと、彼の人格とを結びつけて私は考へて見た。
のつそりと泥棒よりも静かに、私の玄関口を訪れた、髭もじやの彼の顔こそ私の第一印象は『愚鈍な聡明さ』を思はせ、彼操吉もまたこの熱情の税関吏から、野性といちめんグロテスクな味覚とを収穫したのではあるまいか。
彼はまた、ブレヱクの幻惑に酔ひ、ゴッホの向日葵と燃焼し、ダビンチを愛敬し、グレコを恋慕し殊に私の愉快に感じたのは、操吉が、狐のやうに尖つた顔で絹扇をばた/\動かし、桃色と幻青《あお》との軽羅《うすもの》の女を、好んで描く女画家マリー・ローランサンに惚《ほれ》てゐることだ。
彼の詩並に絵は、彼の恋人の作のやうに幽幻な妖気にみち/\たものである。
私は彼の詩風を他人《ひと》がよく、千家元麿氏の流れをくんだ平明さを追ふものだといふ言葉をきくことがあるが、私はさうは思へない、千家氏からは不用意な素朴さの牽引力を感じるに反して、彼は細心な野性をもつてゐる、この点ではずつと象徴的である。
その例として彼の絵を見ればすぐに判るだらう。
大正九年出版の画集には、この象徴風な実感にあふれたもの、百号大の『若きクリスト』『踞まれるカイン』『苦悩者』『地より出る光』其他の作が発表されてゐるが、いづれも魅惑に富むものばかりで、殊にもつとも構想の雄大なもの『若きクリスト』(銅版はその絵であるが)の彼の友詩人中西悟堂氏の説明によれば『絵の中央には鍬をもてる弊衣のキリスト、足下《あしもと》に獣と鳥とがゐる、鍬は地を耕すことを意味し、獣と鳥とは地上の生物を意味し、しかもこの二種の動物は人間の顔をしてゐて、殊に獣の尻尾には星の燈火が燃えてゐる、絵の下段にはアーチ型に、男性と女性とが腕を伸ばして手を握り合ひ、女性は赤児のクリストを抱き男女の下のは日月星辰と冥府《よみ》の国とがある』かういつた風に豊饒な幻影は尽きることがない、彼れは暫らく滞在して絵を描いていかうといふが、今回は主として風景小前にひたり金銭は度外視の、彼れを真実に愛してくださる人へのみの『油絵頒布画会』をやりたいと思ふ、だが彼れは絵が一枚も売れなくても、彼れの詩情は肥満して帰京するだらう、だが出来ることなら彼れの為めに私は一点でも多く絵を売つてやりたい気がする。(申込み九条十五丁目右八号僕宛)
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旭ビル楼上の白楊画会評
旭ビル三階で来月一日まで開催の旭師白楊画会を観る何れも新進の気に満ちたもので入場者も相当あつた。
佐藤熊蔵君『机に倚れる幼女』面白し、さてその珍奇さから眼を転じてその内容的に包含されたものを探し出して見る場合、実質に於ての物足らなさがある。傾向としても現在の処あれまでの飛躍や転換を試みることはちよつと危険であり過去の仕事にもつと執着をもつ必要がある。だが君は努力家であるから、自己の路をぐん/\開拓して行くことゝ思ふ。総じて色彩の飽和に乏しいのが難だが真剣さが何より心強い。
西島藤夫君『春の川』この画|幻《おぼ》ろげながら筆者のその企てを感ずることが出来るが佐藤君程強調された個性が息づいてゐない。だがこの人も真面目さを窺はれて嬉しい『初秋』『牛朱別風景』すぐれてゐる。
石附省吾君『ダリヤ』熱はあるが色調のこなれてゐないのが残念だ、背景や敷物の描法など幼稚で今少し研究を要する、『百合子さん』の絵はデッサンが狂つてゐるし、稀薄な感じがするが、もう一苦労がほしい。
浅野駒吉君『旭農場』草と樹木のもつ魅惑がでゝゐて好きだが余り硬化せずに色調などもつと自由な境地にゐて欲しい、『ダリア』の方はこなれてゐない。
もつと他の諸君の作も批評したいが紙面の都合で次の機会に譲つて貰ふ。真剣なのが何より喜ばしい。希望を述べれば師範の美術部はおたがひに感化され易い傾向があるやうで、もつと各自の画境を勝手な進路でひらくべきだと思ふ、この点では現在の処頗る乱雑な嫌ひがあるが、旭中の画会は各独自的で、この点ではいゝと思ふ。兎に角もつと自由に精進して欲しい佐藤君辺りの影響が各人の種々の形式に侵入されてゐるのは考へ物だ。
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洋画壇時評
美術批評家に思索力なし
『洋画壇時評』と銘打つての時評であるが、幸ひなことには私は全くの画に就いては素人であるといふことである。日本画の作者達は、美術批評家達を指して『職人』と呼んでゐるさうであるが、それは非常に適当した良い呼び方である。絵かきの中にも看板絵書き、職人的絵書きと呼ばれる、事物の描き方が世俗的な常識的世界を一歩も出ない人々が少くないこれらの職人的画家達の批評
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