家としては、職人的美術批評家の存在はゆるされるだらう。だが一度作家に芸術的独創性が加はつた瞬間には、この職人批評家の批評圏内に一人の独創性ある画家を住まはしてをくことが不可能である、批評家の狭量といふことは、良い作家を『黙殺』といふ手段で殺してをくわけである。自信のある画家はこれらの批評家の黙殺主義と実際の絵の仕事の上で、あるひは文章の上で、気が済むまで反撥してゆくこともまた自己の芸術の主張の一つの仕事である。批評家が自分の作品に四つに組んで汗みどろで自分の作品を批評し理解しようとする気持がその批評家の文章の上に現はれた場合は、たとへ誤つた批評をされたとしても非常に気持が良いものであるが、画壇で横行する通り一ぺんの印象批評や、頭からのやつつけ主義、棍棒批評、マキ雑棒批評などは画家の身になつては到底堪へられないものだと思ふ。日本の批評家は、画壇に限らず、詩壇、文壇でも非常に思考力がなくて、一枚の絵を前にして、その絵が良いにせよ、悪いにせよ、その絵を微細に観察し、その作品の美点、欠点を解く鍵をあくまで発見しようとする努力的な親切さが全くない。作品を前にして、その画に関連したさまざまの思索をその批評する画から引きだす能力のある美術批評家がない、言葉を替へて言つてみれば、ほんとうに心から画が好きで美術批評をしてゐる者がない、更に言ひかへれば嫌々批評をしてゐる、それでは美術家にとつて親切な批評家である筈がない。そこで私のやうに門外漢が、画に就いてズブの素人が画の批評をまでやらうといふ気持にまでならせられる、(それは決して喜ぶべき現象でない)須田国太郎(氏とか様とか殿とかいふ敬語の使ひ方の差異が私にはよく判らないので一切敬語は省略させて貰ふ)がある美術新聞で、里見や広津といつた文壇人の美術批評の方が遙かに画壇人の批評よりも、的確なものがあるといふ意味をのべ、素人批評を歓迎してゐたが、これなども画家の率直な告白であらう。然し素人批評は結局素人批評の域を出るものではない、餅は餅屋といふ古い言葉は必ずしも軽蔑できない。文学、美術とはつきりジャンルが別れてゐる今日、それぞれの専門的批評が是非必要である。絵画にせよ文学にせよ、今日の社会的接触点に於いては、文壇人もまた一応の絵画批評ができるであらう、だがその親切さは多く瞬間的親切さである。一人の画家の絵を真に親切に批評してゆかうとするのであれば、作家の内的生活の道程を一緒に芸術批評も歩るいてゐなければならない。十年前にどういふ傾向の画を彼は描いてゐて、そして今日どういふ傾向を辿つてゐるかといふ、時間的にも一人の画家を客観的に見る親切さがなければ批評家はつとまらない。

    画家のヱゴイズム

 さういふ批評は画壇と共に歩るく専門美術批評家でなければなし得ない。年に一度か二度の展覧会を覗いて、そして文学者が絵画を批評する、そのことは一向差支ないが、若し里見、広津といつた門外漢が、社会的地位で、なにか、これらの人々の批評した美術批評を作品評価の決定的なこと柄のやうに、画家が思ひ違ひをしたとすればそれは画壇の為めにたいへん危険なことである。私はむしろ文壇人の美術批評に画家が何等かの特別な価値を認めるといふ、変態的現象の根元が、画壇自身の中にあると思ふ。つまり『指導的批評家がゐない』といふ事に帰結するだらう。ロクな批評家のゐないといふことが、画家の製作上のヱゴイズムをより極端に助長させ、全く批評家無視となりひいては画壇の混乱を招来してゐるのが現状だと思ふ。

    展覧会至上主義者へ

 展覧会作家に就いて、曾つて藤井浩祐は斯う言つてゐた。彼はこゝでは画家、彫刻家の仕事の『非連続性』を責めて、一年に一度や二度の展覧会出品に、出品する作品にこと欠くやうな者は、平常の不勉強ぶりを覗ひ知ることが出来るといふ意味のことを述べてゐた。この藤井浩祐の言葉は、善意に解釈すべき言葉である。こゝでは藤井は芸術家たるものゝ、製作慾の激しさを要求してゐるのであつて、展覧会を目標としてのみ、青春を朽ちさせてゆく画家の少くない今日、この恐怖すべき現象に対して、画家たるものが相当自己反省して良いであらう。
 私は徒に展覧会軽蔑論者ではない。然し現在の日本の展覧会(主として官設のそれ)が如何なる社会的意義と立場をもつてゐるかといふことに想ひ到る画家は、自分の仕事が可愛いければ可愛い程、この種の展覧会出品の意義に一応の疑ひをもつ必要があらう。
 殊に官設展覧会の存在の理由のアイマイさの一つに展覧会が画家の作品の発表機関であるか、奨励機関であるかといふ二つの認識の中間を漂泊してゐるのが現況である、両者一体の方針にあると主催側は主張するのであらう、事実はこの主催側の主張を裏切り、二つのものゝ矛盾を現してゐる。どちらも徹底してゐない。この奨励と発表とを兼ね備へてゐるといふ公器としての方針に、少くともその立前から自由主義の方針に基かなければ存在理由が成り立たない。審査員たちは続々と持ちこまれる画家の絵を前にして、それを審査しながら如何なる感情を抱いてゐるであらうか、そのことを想像し、憶測することも興味がある。おそらく審査員達は若い後進の画家の画業追求のはげしさに、心内平穏ならざるものが少くないであらう。そして審査の方針として彼はこれらの作品に心理的には脅やかされながら信念的にはこれを勢ひよく排除し跳ねのけるであらう。この心理と信念とを接続するものは何等画家的な批判性をもつてゐないものが少くないだらう、この審査員の心的動揺は強盗の心理と一脈相通ずるものがある。(それは何等過激な形容でない)心でびくびくしながら信念の強さで他人の品物に手をかける強盗はそれだけでも猶多くの不安を感ずる。二つの物では足りない、更に兇器といふものを手にする。
 若し展覧会の審査員で猶審査に必要とするもの強盗の兇器にひつてきするもの『社会的地位』或は『画壇的地位』といつてもよいこの兇器をふりまはし、他人の作品の制作心理にズカ/\踏みこんでくる強盗的審査員が一人でも無かつたら画壇のために幸である。
 かゝる展覧会、審査員を目標として年に一二回の展覧会のために精根を尽くすといふことは、おそらく馬鹿々々しいことの限りである。画家の制作上の連続性といふことは相当尊重されてよい、今年の展覧会から、来年の展覧会までの時間的充実が画家として恥ぢるところがなかつたら何をか言はんやである。

    個展時代の招来

 然し今日の如き全く展覧会が社会的意義を喪失してゐるのに、更に期待を続けてゐる画家があつたとすれば、そのことが既に画家の心理的空白を立証するものである。彼のスケッチブックが真白であると同様に彼の生活もまたまつ白な頁である。画家はまた斯う弁解するであらう、絵かきといふものはさう連続的に絵ができるものではない。思索の時間も女に惚れる時間も、酒をのむ時間も、猥談をする時間もまた意義があり、新しい衝動へ移るには少くとも時間が必要であると、その弁解もよからう。では君は今朝起きて顔を洗つたそして昼となり、夜となつた、そこで君は今日一日から如何に「新しい」と名づけられる創作衝動を画布の上に描くことができたか――いや少し待つてくれ、今日は駄目だつた明日になつたら纒めあげると――一日の生活から曳きだされた新しい制作的衝動を、その一日分さへまとめあげる力のないものがどうして二日、十日とこの心理的荷重をまとめあげることが出来るだらうか、私は疑をもつ。(この私の意見は画家に対して衝動主義の制作を慾求してゐるのではない、具体的には次の機会に述べる)私は画家の多作主義を主唱する発表方法では、小集団主義と、個展主義とに賛成したい。それはあくまで過渡的な方法であるが、然し我々画の観賞者はこれを期待してゐる、また画壇の実力時代の招来のためにもさうした方がよい。個展乱立では助かるまいといふ危惧をもつ人もあるだらうが、それは素通りでも列べられてあれば嫌な画でも見なければならない。個展であれば一度見てコリゴリすれば二度と見に行かない。然し優れた画家の個展を度々見せて貰ふといふことはこの上もなく嬉しい。そこには個展乱立の弊害は、案外解消されるのではあるまいか、妙な機関にしばられて這ひずり廻つてゐる団体、展覧会が何時までも存続するといふことは醜態の極みであるし、油絵の大衆化のためにも是非個展時代がきてほしい。

    白朝会を見る――佐竹徳次郎の絶品『鯉』

 十二月十八日迄日本橋高島屋で催した白朝会、あの位の人数であゝした催しは、非常にフレッシュに絵を見ることができる。
 金沢重治――「雪降り」「雪」は何れも失敗の作であつたが『滑川』は好感をもつことができた。ドラン張りの面と線の交錯が非常に効果をあげて観者を楽しませる。
 金井文彦――この人の作品の色彩上の稀薄性は『静物』などで特長がでゝゐる。然しその稀薄性の効果はあいまいなものである。もつと徹底できないものか。
 九村芳松――半身の方の『コドモ』が良い。子供の頭と腹部とのふくらみを生かして、着衣に包まれた胴体に柔らかみを与へてゐる、子供の肉体の特異性とその観察がゆき届いた作である。
 田辺至――技術家であつて技術をもちあつかひ兼ねてゐるといふ型である。わざと技術を拙劣に書いてかへつて効果がでるといふことは技術に恵まれすぎた画家の罰である。
 大久保作次郎――『蟹』下に敷いた笹とのつてゐる蟹との空間的説明がついてゐない『柘榴』やゝ見られる。
 安宅安五郎――『菊』は定着性ない現実感がかへつて人に迫るものがある、然しこの方向は危険だ。物体のもつ色と、油絵具のもつてゐる色との両者の制約を解決することができずに、二つの色の制約をそのまゝ絵に出してゐるといふ感ありで、この作家は少しあせつてゐる安宅式の鈍重感は捨てがたいものなのに己れの良さを彼は軽蔑してゐる。
 佐竹徳次郎――こゝに来て漸く救はれる感がする。画家達はもう一度佐竹の絵『鯉』(2)を何かの機会に見せて貰つたらよい、少しは教へられるところがあるだらう。真鯉と緋鯉とが二匹悠然と水を泳いでゐる。作家の直感力の的確さで彼は近来私の見た展覧会で最も感動的な作品を書いてくれた。誰もこの佐竹の鯉の傑出的良さに騒がなかつたとしたら、殊によつたら彼は私一人の批評のために描いてくれたのかも知れない。
 水の色の非凡さ、魚の物量感の出し方のすばらしさ、緋鯉の方の尾を全部描かないことが相並んだ二匹の鯉がたがひにしづかに水を推進してゐるやうな視覚的効果を挙げてゐてこの絵はいさゝかも観るものに不安定を与へない許りか、作者のもつ宇宙観の大きさをこの絵を通じて感じられて、この絵はおそらく一九三四年度の洋画壇唯一の収穫であらう。たゞ一語言ひたいことは、この絵そのものはいささかも難がないが、この作品がかなり偶然性があるといふことである。それは他に列べてある同一人の作との比較に依つてそれが判る。『静物』『風景』何れも感心しない。あまりに『鯉』と他の作品と出来の上でムラがあることが私を悲しませた。佐竹の『鯉』は彼の全技術全感能の集中的な努力と見て誤りがないだらう。
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洋画壇時評 三つの展覧会

    新進NOVA展

 ノバ展の一般的な世評を私は度々耳にしたが、大体この展覧会に就いては「余りパッとしない展覧会だ」といふ評判が多かつた。パッとしないとか、問題でないとかいふ、批評はノバ展の場合、他の展覧会の評と同一に考へられないもの、造型展あたりに比べても、成程この展覧会は子供つぽいところが多いし技術の叩きあげにも年季がかゝつてゐないし、作品も不揃であることは、認めないわけにはいかない。然しながら私は日本の最も「若い画家」(年齢といふ意味許りではない)の新進気鋭の意味の発表場所として是非この種の展覧会の一つ位あつても良いと考へてゐる。「発表機関」これは少いより多い方が良い。自由な発表といふことに何も遠慮をする必要がないだらう。要はその作品の質にあるし、この展覧会の方向にあり、作品発
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