として、勝負なしの状態にをかれてゐる、その点が川村氏の作品の持ち味としての佳さがある、川村氏の作品を『硬い――』と評する人は単純である、さりとて『柔らかい』と評する人はまた当つてゐない、俗にいふところの川村氏は硬軟両様をゆく人ではなく、『硬軟の境』をゆく人なのである。
 しかしながら川村曼舟氏が、全く最初から硬軟の境をゆく、世界を開拓したとはいへない、硬と軟とを分離したやり方も過去にはある、硬い風景をけふ描いたかと思ふと、軟らかい風景を明日描くといふ硬軟両様の使ひ分けをしてゐた時代もある、それは曼舟氏の初期の時代がそれであつたらう、『夕月』といつた柔軟な境地もあれば、近くは防空聴音器などといふ近代的器械を扱つた『秋空』といつた作品もある、しかし前者は、技術から滲みだした軟らかい情感の世界があつて、初期の仕事としての必然性があるが、後の『秋空』はもつと通俗的な、風景作家としての曼舟氏が、出来心で描いたやうなぴつたりとしないものがある、しかし問題はこの二つの作品にあるのではない、むしろこの二つの軟らかい作品を除外したところの一見硬く見えるところの風景作品に曼舟氏の本領があるのである。
 帝展第六回の『斜陽』といふ作品は氏の素描が直ぐ絵の完成された表皮に浮びあがり生かされてゐるといふ意味で、いかにも軟らかい仕事なのである、しかしこの作品は、他の山水風景に較べて柔軟に自由に描かれてはゐるが、却つて暗中模索的な、懐疑的な作品なのである。
 ある道徳的基準が、曼舟氏の作品に支柱を打ちこんでゐるといつた作品ではない、さうした作品はどのやうに華美に描かれ、自由奔放な出来であつても矢張り川村曼舟氏の持ち物ではない矢張り一見硬いと思はれる、山岳樹木に人知れぬ表現の柔和さを潜めた心意気を我々は発見して曼舟氏の作品の甘味に触れるのである。硬軟両様の使ひ分け、或は柔らかに過ぎたところの自由な表現、さうした時代も『比叡山三題』を契機として巍然として道徳的一線を引くことができるであらう。『比叡山三題』や『笙島』は川村曼舟氏の風景画家としての位置をはつきりと決定したところの作品である、またこれらの作品に附属して、『嶺雲揺曳』(帝展第八回)では更に川村氏の実力に対しての濃密な精神的なプラスをこの作品からも受けとることができる、単なる風景画家から、真の風景画家に入つた境界線を『比叡山三題』にをいたが、その理由の一つには、この作品には、『表現』の問題を解いてゐるからである、この作品に到つて、始めて風景の表現といふことがどんなものかといふことを、作者も知り、我々もまた見せつけられるのである。
 川村曼舟氏の作画態度を、私は京都に行つたときの僅かな会見ですべてを知ることができたが、氏は作画対象としての風景といふものに対してかういふ態度をもつてゐる、氏の言つた意味をこゝで要約的に言へば、自分は風景といふものに対しては、それを特別にどう表現しようとか、どういふ風に捉へようとかする考へはもつてゐない、自分は単なる旅行者として、その瞬間的な自然の姿態の心に映つたまゝの一場面をさへ、完全に描き伝へることができたらそれで満足であるといふことを語つた。
 氏の態度は自然を発見するために、歩るきまはるのではない、歩きまはることに依つて発見したものを、強く記録するのである。さういはれれば曼舟氏の作品に就いて一つの特徴を発見することがある、それは氏の作品を注意してみれば、構図的にも決して余韻をつくつてゐない、自然の一角を断裁してきたやうな厳格な緊張感で絵がまとまつてゐる、絹なり、紙なりの両端に描かれた松の枝がこゝで終つたら惜しいとか、こゝの山の形をこゝで切るのは構図的には惜しいとか、さうした神経は使はれてゐない、作者曼舟氏の印象は、惨酷なほど、冷酷なほどの厳格な態度で、在りのまゝの自然の一断片を示す、それ以外のつけたしの情緒や、余韻はこゝで作者の態度で切り落されてしまふのである、曼舟氏が自ら自分は風景の表現作家ではない、記録作家であるといふ態度もまたわかるのである。
 曼舟氏にしてみれば、自然の正確な位置を伝へることが自分の仕事であつて、一枚の風景を描くとき、有りもしない情緒や余韻をつくつて、自然を歪曲する態度の風景画家の仕事とはおよそ反対の立場にあるのである。
 また川村曼舟氏は、『表現』といふことに就いての別種な意見をもつてゐるのである、『比叡山三題』では単なる写意に立脚したものではなく、所謂『表現』的なものがあり、それがまたこの作品を評判の作品にさせたのであるが、しかし川村氏はおそらく現在では、この作品の表現のあり方といふものに不満を自分で抱いてゐると思はれる、なぜなら私は氏と面接したときの、氏の言葉に、『いつたい表現といふものは、さう手軽に現はれるものではないでせう――』といふ意味のことをいつた、芸術するといふことは表現するといふことに違ひないが、対象の真髄を把握もしないで、急行列車的に、自然歪曲の手段をもつて表現なりとすることも自由であらう、またさうした作家が多いのである、しかし川村曼舟氏は、表現といふものをさう甘くは考へてゐないと述懐した、曼舟氏はもし寿命が恵まれたならば、自分は今後に於て、表現の世界に入つて行かうと思つてゐると語つたが、氏は自分で今までの仕事は芸術表現といふよりも、自然の記録としての表現であるといふことを認め、この仕事を一通り終へなければ、真個うの意味の『表現』には入れないものであるといつてゐるのである、曼舟氏のこの言葉の正しさを我々は認めなければなるまい、三十歳台、四十歳台で、一にも二にも表現、表現と叫んで自然ではなく、奇矯な形態の作品を描いて自己満足し、芸術表現なりとしてゐる人々と、較べるときは、曼舟氏は年齢的にいつても、明治十三年生れであることを思へば、悠々たるものを感じさせる、我々は川村曼舟氏のこの言葉を信頼したい、六十に近く、或は六十歳をすぎて始めて、絵画上の表現に没入するといふ、その計画と態度は、全く気の短かい作家の真似のできない点であらう、もしそれが事実として顕はれた場合は、恐るべき仕事ができる筈である、しかしまた曼舟氏がこれまでの自分の仕事は、自然の記録である、また人間的には謙遜な模写の態度であるべきで、自然の一本の枝を自由にひんまげるといふ権利を得るまでに至るには、さう生易さしいものではない、六十歳位になつてから始めてその権利を辛うじて得られるだらうといつた、自然と人間との関係は非常に愛情的なものである、またさうした言葉を川村曼舟氏が吐き得たといふことも、氏がこれまで厳格な写実主義者として歩んできたから始めてそこに到達できたものであると考へる。
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児玉希望論


 いまこゝに児玉希望氏の擁護論を書くとすれば、児玉氏の世間的な常識性を支持することになるのである、一般的な児玉論といふものは、どれを聴いてみても、非常にデリケートなものだと思はれる、美術雑誌の経営者から、観察された児玉氏――美術評論家から観察された児玉氏――、美術記者から観察された児玉氏――、画家から――、一般観賞者から――それから同じ画家同志から――とこれだけ区分してみても、この作家の批評位、区々としてゐるものはない、このまちまちとした児玉論は、その原因はどこから出てゐるのであらうか。
 一言で示せば、児玉希望ほど、毀誉褒貶の渦中にゐる画家は珍らしいと思はれる。しかもそのまちまちの批評は、児玉氏が決して画家型の作家でなくて対外的にも活動的な作家であるといふ理由で、その批評は少しも統一される機会が与へられないとも言へる。
 彼がもつと引つ込み主義の画家であれば、さういふ批評の千差万別といふものは生じないのである。読者諸君がこゝでそのことを他の画家に当てはめて考へてみればすぐわかるであらう。またさうした引つ込み主義の中で、形式をつくりだし、それに依つて画格をつくりださうとしてゐる画家もまたあるわけである。
 その点で、児玉氏は決して引つ込み主義でもなく、形式主義者、気取り屋ではない。やることに開放性があり、それが他人に、理解と、誤解とを同時に与へるやうな立場に立つ、そしてそこに味方も多ければ、また敵も多い作家といふ立場が生じてくるのである。
 雑誌経営者は、児玉といふ作家は甚だ与《く》みし易い人でまた無類の正直者だといふと、その雑誌の経営下にある記者は、いやどうして彼位に腹黒い男はないといふ、この意見の違ひといふものは甚だ面白い、真実の彼をいつたいどこに求めたらよいだらうか。彼を擁護することは、彼のもつてゐる通俗性を擁護することになるといふことは、その意味を言ふのである。即ち児玉希望はその描かれた作品の批評価を超越して、賑やかにこの種の通俗的人間批評が巷を横行してゐるといふこと、そのことに引つかゝるのである。
 彼を良しとして擁護することは、彼のこの通俗的なゴシップ的なもの、或は彼自身の画壇的な行動といふものと、すべて全幅的に容認し、擁護する立場に立たなければならないといふことがある。しかし私は批評家としてみるときは決してそのことが難かしいことではなく、態度の上ではつきりと決定されることなのである。
 児玉希望といふ作家はどうですか――といふ質問を画家仲間にでも、美術記者にでも発してみたらいゝ、画家はきつとかういふでせう――さあ、良い作家でせうね、と仮に悪い作家だといふ人がゐたとしても、その悪い理由を明瞭に自分で知つてゐないし、説明するだけの悪い理由を語り得ないから、結局、単純に良いと言つた人と同じ批評を生みだしてしまふ。
 私は児玉希望の評価の仕方は、特別に冷静にならなければならないやうに思ふ。児玉希望の世間的な要因は、その画壇的動きにあるやうだ、彼は画家としてでなく人間として風当りが強い理由は、画壇での政治的工作なのであらう、しかしおかしなことには、画家としての彼の作品の批評は、大体に於いて、公平な批評下にをかれてあるといふ事実がある、これは作品の価値として動かしがたいもので批評をみても何時の作品も、みな賞讃されてゐるのである。批評の中では彼は恵まれてゐて、そして一般的風評は恵まれてゐないといふ奇現象を生じてゐる、しかし、批評の正確さ児玉氏自身の仕事に対する不断な情熱の傾け方といふものは、かうした世間的な悪評をホホキで掃くやうに掃きだすことが多い、しかも児玉氏は、大体に於いて問題作提出作家だから、世間の風評をまとめてをいて、一年のうちに何回か、丁度衛生大掃除のやうに掃きだすのである。児玉氏がさうした問題作を提出したときの批評をみたらいゝ「やつぱりこの人は実力がある」とか「やつぱりこの人はただ者ではないと思はれる」とか「希望もやつぱり大家としての貫禄がある」とか評されてゐる、「やつぱり」とは、希望再認識の枕言葉のやうなものであつて、かういふ「やつぱり」などといふ言葉を頭につけて希望礼讃する人は、それまでは、児玉希望に対しての懐疑派か、否定的な人か、薄弱な意味での支持者かであり、すぐれた問題作を見ては、希望の認識を新たにするといふ立場の人である。画壇的工作が評判を悪くするといふことは、ただだまつて絵だけを描いて居よ――といふことになる、そのことは単純には受けいれることができない、ただ沈黙して絵だけ描いてゐたら、滅びてしまふやうな世界であつたらどうであらうか、児玉希望氏は、その点で叩きあげてきた人であり、人生のコースといふものが大体どんな機構を辿るものであるかといふことを、よく知つてゐるのである、彼が苦労人である理由が、彼が沈黙だけで終らない理由である。その点は伊東深水氏もまた希望氏と同じタイプを歩ゆんでゐるのである、児玉希望といふ男は、智略群を抜いてゐるといふ風に解されてゐたら、それは少しく考へすぎだ、政治的工作といつたところで、たかだか画壇的工作の範囲にとどまる、日本の政治をどうかしようとか、国際的な陰謀を企てるとかいふ大それたことをやるのではないのである、たかだか一美術の団体を運用して画敵と闘ふ範囲にとどまるの
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