、つぎの彼女の言葉『悩みのまゝに押し切るより外に術はない』といふ言葉が意味を為すからである。
 彼女批評家は、まるで同じ年輩の女友達の帽子を批評するのと同じ調子で、日本画家達を批評してゐるのである。単純無類の美術批評壇の現状なのである。神泉氏がその堅実な手法とは、一見相違するやうな形の変つた、形の崩れた試みをすると、一批評家はすぐかういふのである。『氏はフォービズムの洗礼を受けてゐると見なければならない――』と、フォービズムなどといふ言葉は、洋画壇では通用はするものの、日本画の傾向に対しては、どのやうな角度からも適用できない言葉なのである。日本画は少くとも洋画とはその育ちに於いて違ふといふことを無視して、野獣派だとか立体派だとか、印象派だとかいふ洋画傾向の上の言葉を、いとも簡単に押しつける批評家の太さは驚ろくべきものがある。
 神泉氏が何時フォービズムの洗礼を受けたか知らないが、かうした洋画批評を押しつけることの好きな批評家に対して、私も洋画批評風にかう言つて『徳岡神泉氏は、君のいふフォービズムの影響からは卒業してゐる。昨年文展の「菖蒲」を見給へ、セザンヌの境地に到つてゐる――』と、ひやかしてやりたい。また或る批評家は正直にかう告白してゐる『神泉が色調でセピア風なものを好む心理がわからない、また日本画壇ではその点珍らしい作家だ――』と、他の画家が、青だ赤だ藍だと騒いでゐるときに、神泉は茶つぽい色を好んで使用する気が知れないといふのである。それはもつともな疑問でなければならない。しかし飜つて考へてみるときは、至つてこの問題の謎は容易に解ける。茶とか黒とかは現実主義者が好んで使用する色なのである。殊に「茶」といはれ、また「セピア風」と呼ばれる色調「自然主義的な色調」なのである、こゝでいふ自然主義とは××主義とか××流派とか呼ばれる意味での「自然主義的」といふ意味ではない。こゝで誤解を避けるために言ひ方を変へてみれば「自然科学的」といつた方がわかり易く、また当つてゐるであらう、神泉の色調がたまたま彼が現実主義者であつたために、「自然科学」的な色調を選んだといふことは、至つて自然な選び方だと言へるだらう。茶にせよ、青にせよ、神泉の色の選択、色の重ね方は、自然への復帰といふ第一の方法が採用されて後、表現といふものにとりかゝるのである。表面的には絵が冷酷で、神経質で、冷たい形をとりながら、観るものをして、神泉の絵からは何か滲みだしてくるもの、何か温かいもの何か、何かといろいろの感動を与へられるのは、実は神泉氏がさうした制作過程をとり、さうした効果を作品の段階の中に附与してあるからなのである。
 神泉氏に対する一般的期待は、作者自身の期待ではなくて、どうやら世間自身の気休めらしい、神泉氏が今後少しも飛躍らしい飛躍をしないと仮定することが、世間自身が想像することさへ辛いのである。動きのとれない絵を描いてゐる不思議な画家神泉氏の持ち味といふものを少しも理解しようとせずに、何かしら神泉氏に求めて許りゐるのである。或る人は神泉氏を指して、新傾向の指導的立場にある人であると評したが、一応当つてはゐるが正確には指導的な「人」ではない指導的な「絵」を描いてゐる人である。また人に依つては神泉氏が一作毎に人の意表に出ようとしてゐる――と評されてゐるがこれも当つてゐない、それらのものを全然考慮の外に置いて、神泉氏は何時の場合にも問題作を描いてゐるだけなのである。昔の「蓮池」とか「後苑雨後」といつた作風は、すでに神泉氏の運命をその画風の上で規定し、決めてゐたのである。蓮とか菖蒲とか、牡丹とかを、好んで題材にしてゐるといふことは、これは唯一の勉強の方法として、好都合なものであるからにすぎない。人一倍「空間」といふものの探求を好んでゐるこの作者は、これらの題材で良き探求をしてゐるのである。そして画面に加へる「熱量」がその画面を迫力あるものにしてゐるのである。「絵画に於ける空間は其の色調よりも画題によりて寧ろ指示されるものである」といふ言葉はラスキンの言葉であるがこれは作家の制作事情をよく理解した言葉だと思はれる。昨年文展「菖蒲」の空間的に成功してゐたのは、画題の選択の上で、先づ成功してゐたといふことと結びつけることが必要である。しかしこの「菖蒲」に対する一般的感心の仕方の特長は、菖蒲の水に反映した部分なのである。しかし問題の本質は反対の処にある。水から上に出てゐる部分の描写の仕方が問題であつたのである。しかし世間は甘く、そして世間といふものは事物の映像をより愛する。水に映さしたり、少し許り神泉氏が水墨的な滲みを利かしたりするとワイワイ言ふ。しかし神泉の真の作家的歩みの興味ある点は、その足取りがおそろしくスローモウションなところであり、能芸術のやうな動きなのである。それは静かな動作形のなかに最大の熱量を加へるといふやり方なのである。神泉の作品は緩やかさの極致に於て、磨かれ、また情感的なのである。
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石崎光瑤論


 石崎光瑤氏の画的経歴くらゐ、複雑微妙なものはまたとあるまい。こゝで注意して欲しいといふのは私は「画壇経歴」とは言つてゐないので「画的経歴」と言つてゐるといふことである。ながい作家の画生活のうちで、画壇的な動き、またその起き伏しの点では、ずゐぶん複雑な画家も多からう、敵もつくるが、また味方もつくる。そして画壇的位置の進退駈引に精魂をうちこみつゝも、画作をつゞけるといふ画家もあらう。さうした経歴者は、その個人の動きが政治的だといふ意味で、「画壇経歴」といま仮に呼んでおく。
 石崎光瑤氏の場合は、さうした経歴とはちがつたものをもつてゐる。石崎氏はその画風が独特であるかのやうに、その心理的な内部生活も、独特なものがあらうと、観察を下して、それが言ひすぎであらうか、さうは思はないのである。石崎氏の画のあの華麗さは、如何なる心理構成によつて出来あがるものであるかといふことを考へてみるとき、美しさは単化された純粋度をもつて見る人をうつが、作者そのものは決して単純ではない。しかも私は石崎氏の作品の形式が作者に与へるところの、厳粛な苦悩といふものを、充分察することができるのであり、また察することが、至当であると考へる。
 この論を書くに際して、自分は石崎氏の作品をすこし計り見てをけばよかつたのであつたかも知れない。それでも批評の的確が不可能とはいへない、ところが、幸か不幸か、石崎氏の過去の作品をかなりに数多く見たり、経歴を調べたりしてしまつたのである。そしてそのために世にも華麗な画家のために、いくぶん陰気な評論を書かざるを得ない立場になつた。しかし私はそのことを喜んでゐるのである。石崎光瑤といふ画家は、決して華美な、派手な画家ではない――といふこと、これはこゝで語る結論なのである。
 石崎氏の過去の作品「熱国妍春」を始めとして、諸製作全体からうける感じは甚だ鈍重なのである。決して明朗でない許りか、圧迫感をもつてゐるのである。曾つて評判作「野鶴」に就いて、色々の人が批評をしてゐるうちに、この作品の真鶴の組み立ての苦心や、「羽色の調子がよく、重なり合つた後ろに親羽根の調子など自然である」(西村五雲)など、鶴の羽の裏あたりの明暗など成功したものといふ定評があつた[#「。」がないのはママ]だが西村五雲は唯バックが装飾的に行く上から止むを得ないかも知れないと思つたが、どうも少しどうかと思つた、と言つてゐる。殊に平福百穂は「三段にも四段にも塗つた群青の水と茶色の草原ですが、そこに何だか落付かないところがあつて、大変惜しい気がするのです――」といつてゐる。この人達の批評の中で、私の興味をひくのは作品の出来不出来の批評をしてゐるに違ひないが、心づかずして石崎光瑤の本質を語るものがあるからである。「そして何だか落付かないところがあつて、大変惜しい気がするのです――」といつた平福百穂氏の言葉が光瑤氏の本質論を代表してゐるのである。読者は石崎光瑤氏の作品全体を通じて、どの作品にも秘められたところの不安感が漂つてゐるといふことである。殊に初期の作品にはそれが多い。この不安感、焦燥感は、不用意に見るときは、感じないで見過ごしてしまふ程度のものである。しかし作品は少しく吟味してゆくときは、それを発見するであらう。露骨ではないが、ある種の焦立ちを感じさせるものなのである。たゞその不安感はその色彩の上には現はれてゐないで、多く構成の上に現はれてゐる。その不安感は美麗な甘美な色調の中に溶解されて、一種異常な感覚美と化して観者にうつたへてゐるのであり、その意味から、初期の作品に漂ふ雰囲気には形容しがたい妖性なものを感じさせる。それは光瑤氏は時代の子としての、近代感覚的な現はれであらう。光瑤氏はその作品の感覚的世界に於いては、近代の所謂、新しい日本画家も、その新しさの点では光瑤氏から学ばなければならない多くのものがあるであらう。新しい日本画家が、もし光瑤氏の作品に批判的であるとすれば、それは光瑤氏の精神的部分ではなく、其の形式の点であらう。ある人は光瑤氏の作風の装飾的な部分が、気に喰はないであらう。するとまた一方では「闘鶏」の批評で斎田素州は「装飾化したいつもの得意な作柄であるが、今迄の例から云ふと画面の単純化されたもの程成功してゐる」といふ。光瑤氏の作品の装飾的単純化を支持してゐる人もある。「闘鶏」評で「唐黍の葉がやゝ多過ぎ出方にもわざとらしさがあつて気掛りになる」(斎田素州)や「野鶴」評で、「石崎光瑤氏の「野鶴」は昨年の鶉程に若沖の影響を明らさまに示してゐないのはいゝ、只猫柳の花などは、少しうるさ過ぎはしないかと思ふ」(石井柏亭)といつた二種類の分裂的批評が、絶えず石崎氏には、これまで加へられてきてゐるのである。石崎氏が写意を主とした部分に、うるさがられて、「唐黍の葉がやゝ多過ぎ」といはれ、表現の単純化、とそれに伴ふ芸術的誇張に対しては、「唐黍の葉がやゝ多過ぎ、其出方にもわざとらしさがあつて気掛りとなる」と評されてゐる。徹底的写意と、抽象的表現、この石崎氏の二つの方法は何時も、一つの画面の中で、二組の対立した観賞者があつて、一方は装飾化を嫌つて写実的手段をより認め一方は装飾単化された作風を認めてゐるのである。
 石崎光瑤氏は、その画壇的出発点から、数奇な運命を辿つてゐるといへるであらう。その画風の微妙な推移をみるときはそれは将に数奇な運命といつてもいゝであらう。光瑤氏が「熱国妍春」を、印度土産として、出品したときは、その画面に加へた圧力の圧倒的なものは、人々に驚異の眼をみはらし、この一作が殆んど決定的に石崎氏の力量を証明したものとなつた。殊にその精力的態度と、極度の絢爛美は他の追従をゆるさぬものがあつた。この作発表の三四年後には帝展審査員任命をもつて遇されてゐる。こゝに、一つのヱピソードを語れば、氏は其後帝展審査員としての不首尾なものがあつたといふ、その理由はかうだ。その失策といはれるものは、唯審査会場で、あまり露骨に大胆に自己の意見を述べたためだといはれてゐる。それが先輩や仲間の不快を買つたことになつたのだといふ。今ではさうした話も笑ひ流せる一※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話であるが、それが事実であつたとすれば、当時の光瑤氏の面目躍如たるものがある。またさうした理由が審査員不首尾の理由だとすれば、その理由は、若き時代の光瑤氏の満々たる闘志の現はれとして、むしろほゝゑましいものがある。
 しかし世間ははるかに冷酷であり、そのほゝゑましい※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話もまた、画壇政治の中にあつては深刻な様相を呈してくる、「燦雨」とか「雪」といつたそれにつゞく作品が、「熱国妍春」のやうな感動を与へなかつたといふ理由の下に、何か光瑤の仕事が落ちたといふ印象を与へたのである。それは確かに「熱国妍春」のやうな執着力は、其後のこれらの作品には見られないかも知れないが
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