いふこれはどういふことになるだらう。桂華も鶴の首位すつきりと曲げて描けない画家でもないであらう。この作者には「鳴九皐」や「独鶴逐浪」のやうな作品もある。鶴の首をすつきり曲げる技術にはこと欠かない筈である。しかしひとたび桂華が対象の真実的写意をありのまゝに描写するとき世間の一部ではそれを批難する。
土牛、桂華二人展のときも、ある批評家が土牛の神品性を直ちに唱へたが、桂華の作品は常識的で新味工夫を欠くと批評した。これなども桂華にして見れば意外とし、また桂華論としては、批評する方がはるかに常識的であらう。
桂華の写生態度を認めながら、「所謂鶴首としての概念」とは遠いと批評した人と好一対の常識批評なのである。何故なら批評家といふものは、実は作者との共同的な事業として、それこそ過去の概念と闘はなければならないのである。鶴の首の曲げ方がすつきりしてゐなかつたことが「過去の鶴首の概念」とは一致しなかつたかも知れないが、桂華の現実的な写生精神とは一致してゐたのである。そこに問題点がある。この批評家は桂華の味方ではなくて、過去の鶴首の概念の味方であつたわけである。
作者がその写生精神に立脚して種々の試み工夫をするといふことは、古い概念をうちこはして新しい自己の世界を樹立するといふ目的から為されてゐる場合が多い。さうしたとき批評家の軽忽な評言は作者の味方ではなくて過去の味方になるといふことで、作者に苦痛を与へることになる。例へ短かい評言であつても、その評言が当つてゐれば当つてゐるほど、また当らなければ当らぬほどに、作者の精神に各種の心理的な反映があるものである。土牛はシンボリズムを解さない彼はそのかはりに単純化といふ抽象的方法を知つてゐる。桂華はシンボリストであり、またそれに未練がたつぷりある。絵を支へ、骨を通ずるにはその方法に依ることが彼には楽なのである。しかし一方に写実への慾望が高いために、彼は二つの間にあつて動揺し悩むのである。何かで桂華が文章を書いてゐたが、それに曰く「去る十四日から脚気だと医者に云はれ、ずつと臥床して居ります。神経痛には温泉がいゝと云ひ、脚気にはよくないと云はれ、迷つてゐます――」とあつた。両方に利く温泉といふものはなかなかないものである。丁度桂華の象徴的方法と写実的方法とがぴつたりと結合するやうな方法がなかなか発見できないやうなものである。
然し兎も角も現代京都画壇いな日本の画壇の人気ある作家としての桂華氏には、風筆の企及し得ない芸術を持つて居ると云はねばなるまい。
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徳岡神泉論
これまでの徳岡神泉氏は、画壇的には不遇な作家といふことになつてゐる。もつと早くから有名になつてゐてもいゝ作家であるとか、或は画壇的にはもつと派手な扱ひをうけてもいゝとか、色々と世間評がある。一言で言ひ尽せば、徳岡神泉氏は、もつと画壇的に恵まれてもいゝ作家であるといふ定評がある。これでなかなか神泉フワ[#「ワ」に「ママ」の注記]ンも多いのである。ところが神泉フワンは、この神泉といふ作家が、これらのフワン達をヂリヂリさせるといふ特長をもつてゐる。いまこゝに川端龍子フワンがゐたとしたら、フワンたるものは、龍子の仕事の颯爽ぶりに、内心快適なものを味ふであらう。才気煥発、運筆自在、縦横馳駆の川端龍子氏の画の過程は、そのフワンたるものの心を躍らすに足る充分なものがある。それに反して徳岡神泉氏のフワンになつたものは、神泉氏の仕事ぶりの着実さとそして折々その停滞状態とそれから膠着現象とに辛抱をしなければならないのである。
大正十五年の第七回で特選となつた「蓮池」はその画風ののつそりとしたそれのやうに、新進としての徳岡神泉氏の出発ぶりは、甚だのつそりとしたものであつた。以来徳岡氏の画の歩行ぶりは、のつそりとしてゐる。然しそれをもつて野暮臭いとは、決して誤つても言へないのである。非常に感の利いたこの「感」をもつと別な文字に当てはめると「癇」の利いた作品なのである。画壇に恵まれないといふ世評は、いまになつては滑稽なお世辞になつてゐるが、たしかにさういふ一時代もあつた。しかし徳岡氏自身画壇から何かを恵まれようといふ考へは毛頭もつたことがないらしい。これまでは全く作品中心主義できたといふことができよう。徳岡氏の画材が蓮とか鯉とか、牡丹とか、菖蒲とかに、とかく固定的であつて、それは現在に至るもさうではあるが、或る神泉フワンの一批評が、内心そのことを非常に気にかけてゐたらしくどういふハズミか徳岡氏が「狸」を描いたとき、その人がかう感想を述べてゐる。『徳岡神泉氏の「狸」は非常に神泉らしさが盛り上つたものであつた。此味でなら静物としての毛皮を描ても定めし佳作を得るであらう――』と、これは決してこゝで落し話を語つてゐるのではない。また作り話でもない。さる一流の堂々たる美術雑誌にさう批評されてゐたのである。私はこの神泉批評を読んだとき、思はず微苦笑を洩した。この批評家は決して神泉氏に対して皮肉な意味で言つてゐるのではない。大真面目に神泉氏の鯉、蓮の題材から狸への飛躍を祝福し、更に毛皮への躍進を求めてゐるのである。もし、本当に徳岡氏が毛皮を描いたらどんなことになるであらう。その批評家は、きつとかう激賞するにちがひない。『徳岡神泉氏の「毛皮」の作は近来稀な出来栄えでその画材も、従来に一新気軸を与へたものである。毛皮の眼の玉は、あたかも生けるが如くランランと輝いてゐる――』と、毛皮は毛皮らしく、毛皮の顔にはめられた硝子製の眼玉は、その硝子らしさに描くところが神泉氏の絵の行き方である。硝子らしさに描いた眼の玉を「生きるが如く」と批評するところが、フワンのフワンたるところであり、賞めつ放しの一般的批評の底でありフワンの味噌なのである。こゝでお可笑な例証を挙げてしまつたが、神泉フワンは、作家が題材的にも大いに今後飛躍して、毛皮まで描いてほしいといふ欲望をもつてゐるといふことをこゝでちよつと伝へておきたい。しかし神泉といふ作家がさうした神泉フワンの求め方に応ずるかどうか、それは多大に疑問なものがある。
それはフワンの期待の毛皮を生けるが如く描くのではなくて、神泉といふ作家は毛皮を死んだやうに描きたい――といふ欲望をもつた作家であり、その即物象主義といふか、対象の物質性への喰ひ下りの態度は、日本画壇でもかなり強烈な態度をもつた作家なのである。ただ絵の出来上りの静謐さが作者のさうした内部的な欲求を温和に隠してゐるために、その激情性は見えない。作者の客観的態度、つまり作者が外部から自己の慾望へ加へるところの圧力の強さといつた方がわかり易い。自制力の強さの点では神泉といふ作者は珍らしい。そしてさうした圧力が作品の自由性を決して損ねないといふ手段をもつてゐる点、これまた神泉といふ作者は、画壇でも珍らしい。作画上の方法を身につけてゐる作家といふことができよう。
自制力を加へることに拠つて、次第に動きがとれなくなつてゆく作家もあり、又反対に自制力を加へることによつて、自己を拡大してゆく作家もある。また第三の種類の作家に、全く自制力などといふことを考慮に入れず、自己のあるがまゝに振舞つてゆかうとするものもある。殊に神泉の場合の第二の自己抑制の方法は甚だ自己を知るものと言へるだらう。作家が現実からの衝撃のうけ方の敏感なものは、通俗的な形容でいへば、『あまり神経質な作家は――』その神経質なために却つて芸術が完成されずに、作品も人も斃れてしまふといふ場合が少くない。神泉を指して「感」といふよりも「癇」だと形容したのはそれである。俗にいふ「癇癖」の強い作家の一人に私は神泉氏を加へたい。次いで「癇癖」組を二三挙げてみよう。小杉放庵氏なども加へたい。横山大観氏などその癇癖の大なるものだ。そして神泉、放庵、大観にしてみても、精神上の癇癖の高いことと反比例して、作品的にはまことに、温和な境地を開拓してゐるのである。これらの作家がもし心のまゝに絵を描いたならば、絵がまとまらないばかりでなく、絵絹を引き裂くのと一緒に、自分の肉体をも一緒に引裂いてしまふであらう。しかしこれらの作家は、自己抑制の手段を、まづその画風の上で打樹ててゐるといふ賢明さがあるから、その破綻を自己の手によつて繕ふことができるのである。自己破綻の救済といふことを、絵で描くといふことによつて果たされるといふことは、簡単明瞭に、それは良い作品が残るといふことになるのである。神泉の制作態度のネバリ方は、かなり個人主義的なものであるに拘はらずその出来た作品が決して個人主義的ではなくて、いろいろと画壇に問題を提出してゐるといふことは、そこに神泉の仕事のしぶりの面白さがあるのである。
『誰のために描いてゐるか――』といふ質問をすべての画家に発してみたいものである。そして徳岡神泉氏へも一質問を試みたらどうであるか、画商のためにか、或は日本美術の世界的発展の為めと大きく出るか、或は妻子の幸福のためといふ子孫永続の立場にたつか、金が欲しいためにか、世間的栄誉を目指してか、行きがゝり上描いてゐるか、あの男に負けるのが忌々しいからと、小さな個人的勝敗心理からか、かう数へあげればきりがない。神泉氏に対して、『貴方は誰のために描いてゐますか――』といふ質問を発した場合に、彼は何事も答へないであらう。そして黙々と牡丹や蓮ばかり描いてすごすだらう。たまたま一党派の主脳者となつたために、後進、部下のためにも、勉強ぶりをみせなければならない立場に立ち到つてゐる画家も世間にはある。そしてその主脳者は、相当に自分の実力以上に無理な仕事をして主脳的位置に立つてゐる。さういふ状態はあまりにも惨めなものがある。徳岡氏はさういふ政治的計画は絵の上には加へられてゐないやうだ。画壇の一党派を引具したところで、広い世間からみたら、単なる画家の一団体にすぎない。それが絵の仕事を放りなげて、政治的工作をしたところで、高が知れてゐるのである。もし徳岡神泉氏が、さうした画壇政治的野心があるものと、こゝに仮定したならば、『それはお止しなさい』と止めたいところであるし、さうした政治的工作よりも、蓮や菖蒲の一枚の葉の真実を描くことの、如何に仕事が大きいかといふことを、神泉氏のために奨めたいのである。世間では神泉氏に対して一種の大器晩成主義とみてゐる、その出来上つた作品は賞める。それに『将来有望』と附加しなければ気が済まないやうな型だ、何かしら次に出て来なければならない筈だといふ批評的立前から、ものを言つてゐるのである、『神泉氏は恐らく昨今に於ては、一つの転機に立つてゐるのではないかと思はれる』といつた批評がこれまで幾度となく繰り返されてきた。観賞家や批評家といふものはまことに気が短かい。観賞家の気の短かいことはわかるが、批評家はほんとうは作家よりも、気が永い位でなければ嘘なのである。少し許り同じ題材がつづいて描かれると、それを行詰りと見るなどは、神泉氏の場合に当てはめても当らないこと甚しい。神泉氏が狸を描くと、すぐ毛皮を描いてくれと注文するやうなものだ。少し仕事の渋さが連続すると、転機だ転機だと言はれるのである。神泉氏はさうした意味の、騒がれる人徳をもつてゐる。批評の内ではかういふ大胆不敵な評もある。『時には作者自らを動きのとれぬ苦悶の境地に縛りつける。しかし所詮真の芸術が一つの業苦であるならば悩みのまゝに押し切るより外に術はない――』と神泉氏に向つて言つてのける。しかもそれが女流批評家の言葉であつて、かういふ批評を戴いては神泉氏たるもの、左様貴女のおつしやる通りですと肯定せざるを得ないであらう。かういふお嬢さん批評家にかゝつては作家も適はないであらう。この批評家は、神泉氏が何か病気にかゝつてゐるかのやうに錯覚を起してゐるのである。何故なら彼女は、芸術といふものを病気と同じものに考へてゐるらしいからで『所詮真の芸術が一つの業苦であるならば』などといふ形容は、これは『一つの業苦』ではなく『一つの病苦』といふ書き誤りであらう。さうだとすれば
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