或る批評家のやうに松園氏をきめてゆくのであれば世話がない曰く「いはゞ浮世絵の行き方を京都の上品な趣味で翻訳したといつた」作品が上村松園氏の作品なのださうである。この批評によれば、もし上村松園氏が大阪に住んでゐたとすれば、現在のやうな作品はできなかつたわけになる。大阪の趣味がどんな趣味であるか知らない。或は東京の趣味はどんなであるか、浮世絵を改作し、翻訳してゆくのに、京都趣味をもつてしたといふことは、いつたいどういふことであるか、この批評はいかにも一応もつともさうな松園批評なのである。しかしそれでは「京都の趣味」とは如何なものかといふ質問を発した場合には、まづ京都の趣味なるものを語れといつた場合には、さう京都の趣味なるものを軽率には語れまいと思ふ。そのことは大阪趣味とか、東京趣味とかいふことにも当てはまる。身の廻りの置きものとか着てゐる着物の好みとかいふものは、どこそこ趣味といふことも言へるかもしれない。しかし芸術上の方法に、その土地の趣味を翻訳の方法にするなどゝいふことは、絶対に不可能なのである。この批評家の言葉は、一般向きの素人評であり、かなりお座成りなものがあるのである。
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