ける感得、後者は少しでも作者の内部的心理を第三者が辿つて始めて画面からの感得を濃くするといふ場合である。いま上村松園氏の作品の持ち味を理解するには、何れを採つたらよいであらうか。
 絵だけを見て、そこから受けとられるものだけを受けとつてゐてよいか、それとももつと作者のその作品を描いた意図の説明を求めた方がより作品観賞上で有効であるか、そのどつちであらうか、現在の上村松園氏の仕事の状態からみるときは、松園氏の作品の持ち味は、その画面に現はれたゞけ――の感得だけで決して観賞者として不親切ではない。むしろもし作者に向つて、最近の作品の一つを捉へて、その作意や計画を尋ねたとしたならば、松園氏自身が困惑してしまふであらうと思ふ。
 松園氏の作品に対して、批評家が心の用意が必要だといふ意味は、松園氏が自分自身で描いてゐて、説明に困惑する状態の中から、作者にも尋ねることなしにして孤立し、独立した批評をうちたてなければならないからである。つまり単に批評程度の考へでは、松園氏の作品論はできない。批評に塩を利かした方法を採らなければいけないといふ理由が成り立つ、塩とはピリゝとした方法のことをいふのである。
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