も、また量とも面ともつかない一つの新しい実在性を発見してゐる点は、充分問題となつていゝのである。大体吉岡のやうな仕事は、洋画家が、その先進性からいつても先に手をつけなければならないやうな性質の仕事なのである。それを日本画畑の吉岡氏が早くもそこに着眼しその方法の進歩性を採用したといふことは皮肉な現象でもある。これらの吉岡的な創作的苦悶は、一言にして言へば日本画的な或は日本人的な『線』に対する新しい理解が伴ふところの新時代的な苦悶のそれであろう。
一方福田豊四郎氏の場合はどうか、彼は仕事が吉岡氏よりも大まかな猪突的な冒険を企ててるやうに見受けられる、しかし決してさうではない。日本画の伝統への強い肯定に立脚した上での仕事である。表現の大まかな割に細心の変革を、蓄積的に加へてゆくといふやり方なのである。吉岡の方法は日本画の絵の具の物質性といふものに極度に喰ひ下るといふやりかたで、そこでは画面処理が究極の目的でないのに拘はらず、それに反して福田はあくまで画面処理を心掛ける。彼の『松』をみてもわかるやうに、彼は一本の直線を引くことに対しても、その直線の性質の中に、如何に封建的な要素が含まれてゐる
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