殊的事情の下にあつては、余程の人選の慎重さは勿論であるが、さりとて僅かな海外出品者をもつて、我国画壇の全部を語らせようと慾張るときに無理が出来るのである。松林桂月氏の『春宵花影』は題材的にも桜花を扱つて適当であつた。然も桜の花を過度にロマンチックに外国人に画いて見せる作家はザラに居る筈である。桂月氏の作品はその態度の厳格さと、題材そのものがもつてゐる情趣とが、ほどよく調和的で外国人に見せるには、うつてつけの作柄であつたやうである。外国人といふのは始末に終へない現実主義者の代名詞のやうなものである。東洋的神韻といつたものは、東洋的抽象的表現をもつてしては絶対に彼等に伝へることは不可能なものなのである。本質を玉堂の『鵜飼』や関雪の『霜猿』や大観の『夕月』の余韻の多い作品は外人の理解の範疇の外に出る。桂月の『春宵花影』や古径の『雪』のやうな写実的手段でなければ西洋人の悟性中心的な考への中に侵入することは不可能だと思ふ。しかも桂月氏はその桜の花を決して明るく描かなかつた許りか、陰気にさへも描いてゐたことは、東洋の詩と夢の国としての『日本』の現実的な是正として成功作だといはなければなるまい。更に
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