儘の自然を描いてゐるといつた意味で廃園、雑草園的だといつただけである。同氏のこれらの特長的な作品をみると、松の枝へからみついた細い一本の蔓草があるとすれば、その蔓草は実に丹念に、気の済むほどに捲きついてゐるのである。小さな自然物の生命の向ひ方、動き方は、その蔓草の先端の行方を辿つてゆけば判る。作者桂月氏は、松の枝の屈折の仕方に人工的なものを加へない、描写の上では加へてゐるが、対象の事実を歪曲しない、これらの松の枝は、くねくねといろいろの角度に曲つてゐる。この松の木の運命を語るものは、この幹の形にもあるが細い枝のその曲り方と、行方にも関係がある。桂月氏の粘着力はさうした場合に最もよく発揮されてゐる。そこでは桂月氏の写実力よりも、写実的態度が問題になる。小さな赤い南天のたつた一粒の実が語る、この自然物の運命といふものは、なかなかに興味の深いものがある。桂月氏の作品をみる楽しみは第三者は、さうしたところに求めなければいけないやうに思ふ。また画壇の後進者も、その点を認めなければいけないと思ふ。桂月を論ずる場合には、桂月の写実精神を論じなければならない。写実を除外して桂月の値打は存在しないのであ
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