『月苦沙寒』といつた作品は、その手法も構図も、多分に整理されたもので、その意味で技巧的な作品であり、また従つて作品の佳さもはつきりとわかる作である。しかしこの種の作品ではなく、私のいふ『錯雑たる自然』を描くことの妙手であるといふ意味は、桂月氏がその材料を、殆ど雑草園か廃墟からでも求めてきたのではないかと思はれる場合の作品で、もつともよくこの作者の自然観、人柄、実力、そしてそこには一人の人物も描かれてゐないが、人間観をさへ発見できるのである。私はこれらの作品を非感傷的な桂月氏の作品と呼んでゐるが奉讃展の『潭上余春』とか『春郊』とか『秋晴』などがそれである。殊に後者二点には、手法が人工的であるに拘はらず芸術態度が写実的であるといふ意味で、作者の人間的圧[#「圧」に「ママ」の注記]力がよく現はれた作といふことができる。
 敢て私が桂月氏は廃園や雑草園の一隅を描くといつたのは、さういふ場所を描いてゐるといふ意味でいつたのではない。さういつた意味は、廃園や、雑草園などは、草木に対して、自然の雨露、風雪の加はり方が、もつとも自然な放任されたものであつて、桂月氏の作品のこの種のものは、さうした在りの
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