記]とした人物によりも、その人物の背後の自然にある。殊にその自然描写も多くの作家が整理をもつて、その方法としてゐるのに、桂月氏は錯雑たる自然を描き切つてしまふといふところに、氏の他の作家の真似のできない特長をもつてゐるのである。
錯雑たる自然といふ意味は、ありのまゝの自然といふ意味である。そのありの儘の意味と、桂月氏の場合は、他の作家と少しく態度が異つてゐる。桂月氏の問題となるところは、その作品の材料の扱ひ方と、それに併ふところの手法の二点にある。材料の選び方は、全く野放図な状態で、まるで行き当りばつたりに庭の一部や、自然を描いてゐるかの感をさへ与へる。桂月氏の画風は、ちよつと見にはいかにも技術的な技巧的なそれに思はれるが、事実はこれに反して、桂月氏位自然を描くことに、人工的な方法を極度に避けてゐる作家は珍らしいのである。桂月氏の手法は人工的ではないとは言はない、しかし芸術は手法上の人工性を全く避けるといふことは不可能だといつても言ひすぎではあるまい、しかしこの方法が造りものであつてもそれは手段であつて、目的の前には消滅する性質のものだといふことができるであらう。
満洲国への献上画
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