牧野のものでもなければ、色彩家としての牧野のものでもない。つまり線でも色でもない、線でも色でもないものは一体それは何だと誰かゞ反問しさうだ、簡単に言はう、それは『不自然』と称するものである。
 牧野には早晩、彼自身に色と線との分離で苦しまなければならない、宿命がきてゐるやうである。その点で己れを知つてゐるものは上野山清貢である。彼はその点では徹底した色彩家である。これまで極端に混濁した、黒つぽい絵を描いてゐた時代の上野山を私は知つてゐる。そしてその反対に全く明るい華美な色彩の時代の彼をも知つてゐる。彼は色彩の上では、明るさと暗さと、美と醜との間を動揺して来たし内心的な葛藤を彼の絵の仕事を通して知ることができる。そして現在の彼の『魚』の境地では、私は最も彼らしい性格的な調和的な仕事ぶりと、観察してゐる。
 私は上野山清貢の仕事ぶりに就いて、画家仲間の上野山評といふのを厳密な意味で聞いたことがない。上野山の絵は優れてゐるかといふと否といふ、悪いかといふと否といふ、的確な批評をしないのである。そして話をすぐ彼の芸術ではなく、彼の人物評や、行状の方面へその人は話を転じてしまふ。物足りないしまた
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