きないのである。この既定事実の上に立脚して、そこから何かを抽き出すといふことが、絵画上の出発なのである。
 若い批評家や作家が、日本画の封建性伝統性を否定することが強くて、肯定する力をソロバンに入れない場合の、所謂、先輩、大家の仕事に対する、無理解は、早晩十畝氏ではないが、マラソン競争の三十周位から、ボツボツと落伍を始めるのであらう。
 私が画壇の先輩に対する後進者の態度といふものを、ここで問題にしてゐる理由は、先づもつてその態度を設定してからでなければ、松林桂月氏の作品に対する評価は慎むべきであるからだと思ふからである。何故なら横山大観の画壇的地位を、ことごとく彼の政治的手腕に帰するといふことが滑稽であるのと同じやうなものである。大観の作品には少しは見所のあるものもあらうからである。しかもその少しばかりの見所のある作品で奇怪なことには、画壇の大御所的地位を保つてゐるといふことが更に不審といへるだらう。それでは少し許り良い作家ではなく、大いに実力的な作家であるのかもしれない。その間の事情が不明瞭のまゝで、大観の地位は保たれてゐるのである。しかも人々は何等大観の本質を解析しようとしない。
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