さうした事情と同じやうに、松林桂月氏の画壇的位置も、その作品の地位は、その作品の本質を語られないで、保たれてゐるといふ感がまことに深い、桂月氏がいつか九品庵の展観に出品した『田家雪』といふ作品を、或る批評家がかう書いてゐた『この雪に爺や何処より帰り来たらん、漁の具合はどうだ。孫も子も夕餉の膳にはと待ち居る如し――』この批評は考へてみれば滑稽な批評なのである。日本画壇の批評は大体に於いて、この程度でも済むのであるし、通用するのである。絵を見て引き出された批評語が『この雪に爺や何処より帰り来らん――』的程度より一歩も出てゐない現状では、これでは作品批評といふよりも感想といはれていゝ、感想としてもかなりに低俗な見方に属してゐる。しかし私はこの批評を頭から笑ひはしない、大体南画形式の日本画は観る者をして『この雪に爺や何処より帰り来らん』的な東洋的センチメンタルに捉へるものが少くないから、桂月氏の『田家雪』といふ作品が、観者をこの種の感傷にとらへたからとして、それが誤りであるとはいはない。大観氏にはこの種の性質の感傷で、観者を捉へるといふ効果がしばしば用ひられる。ぽつかりと竹林の上に浮んだ月が、
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