この人々の古さを認めてゐるといふことで、自分達が新しいなどと考へてゐたら大変な間違ひが起るといふことである。荒木十畝氏が或るところへこんな文章を書いてゐた――『若い画家などに、自分の進歩の早さを自慢する向きもあるが、その程度の進歩通達は、我々も同年の時既に成し遂げた事であつて、駈足でいへば私などは競技場を六十周もしてゐるのに、その半分の三十周位で、やれ老人は足が遅いのなど高言するのは慎む可きではないか、それより息ぎれしないやうに、日々力を蓄へて、落伍せざらんやうに戒心するを要する――』と若い天才主義の画家に苦言を呈してゐた。いちばん恐ろしいことは、若い連中が、その生理的な、肉体的な若さをもつて、自己の芸術の若さ、進歩性、新らしさと解してゐることが多いことである。これは一つの若い作家の共通的な起し易い錯誤といふことができる。
 松林桂月氏の画業になど対して、若い画家中批評家は、一口でこれを古いとか伝統的だとか評してこれに反撥することは自由であるが、日本画そのものが、既に伝統的なものであるといふことは、既定の事実なので、この既定事実を承認しただけで、これをもつて批評である――と考へ違ひはで
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