或は言ふかもしれない、南画形式といふものは、そんな形式の古さを引つぱつてくるものではない。現代を、そのまゝ生かすべく、現代的手法がいると、しかしそれは理窟といふものである。その理窟をいふ前に、あなたはそれでは、昔からある伝統的手段をどれだけ現代の中で応用してゐるか――、自信をもつて言へるかと反問してみたい、多くの南画家や、広い意味での日本画家は『古いものを生かしてゐる――』といふことを、それほどにも自信をもつて言ひきれないであらう。
 一口に伝統的なもの――は立派だとはいふが、その古めかしさを現代の中に、停めるといふことそれだけで大変な事業なのである。しかも一層困難なことは、その事業は、その事業に携る生きた人間とともに存在するといふことである。日本画の伝統は、成程古いかもしれない、しかしこの伝統の良さを伝へる生きた手段としては、生きた人間が行ふより他に方法がない。その人間がたかだか五十年乃至六十年の寿命よりもつてゐない、伝統のよさ、立派さ、美しさを証明するには、これを伝へた書物や、作品が証明する場合があるが、さういふ証明の仕方は問題とはならない。最近松林桂月氏はある新聞の素人芸術、紙上
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