の観察がどのやうな計画性をもつて行はれたかといふことは問題とされねばならない、つまり観察が充分な計画性の下に行はれる場合には、そこに正しい科学的手段といふべきものが生れてくる。
福田氏の『漣』はあの波紋を、単に直感といふ観察の下に描かれたものであるかどうか、さうではなくもつと充分な科学的な計画の下に描かれたものであるかどうかといふ、この点が作者の所有する制作技術の内容を吟味する唯一の鍵なのである。鏑木清方氏が福田氏の『漣』を当時批評して『ちよつと見ると単純な仕事のやうにも見える群青の波の一つ一つの形態の心づかひ単にそれだけで見て行つても倦きる時がない[#「』」の脱落はママ]、この批評が語るやうに、この波を描いた作者の心の配り、心づかひ、といつたものは、その一線一線に現はれてゐて、それだけをみて行つても倦きないといふことはよくあたつてゐる、前田荻邨氏の波も優れたものであつて、『潮』は特選作である。いかにも生々と波は描かれてゐるが、前田氏の波に対する観察の高度な頂点は感じられるけれども、その観察に科学的認識の導入といふものが感じられない、福田氏の『漣』では、波の線はもつとぶつ切つたやうな
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