あつた、ところでこの黒一色の絵の極めて端の方にだけ雪舟は色を用ひてあつた、何故彼は黒一色で描き終ることをしないで、青とか赤とかをちよつと許り加へたかといふことを私は考へてみたが、墨許りで描いてゐるといふ生活の中に、墨で果せないものが最後に残されるのではないか、黒一色の追究といふものは、黒の世界といふ制約と、観念上ではその絶対化の過程を辿らなければならない、黒だけで幾千種の或は赤だけで幾万種の多数な、赤の段階をその画家が発見したとしても、他の色彩をひよいと使つてみるといふ本能が働くといふ時もあるだらう、雪舟が黒に少量の他の色を加へなければならなかつたといふことに、彼の人間的な本能と、敢てそれを実行してしまふ人間味と、同時に色彩の観念上の絶対化は必ず破れ去るものであるといふことを私はその時痛感したが、極彩色の日本画に対立的に、黒一色の日本画家といふ風に対立を絶対化さず[#「さず」はママ]、南画家であつても自由に色彩の分類的である意義を正しく理解して、自由に色を使つていゝのではないか、淡彩ではなく、時には極彩色の個所もあつてもいゝのではないかと思ふ。桂月氏の色彩が黒の他に他の色彩の魅力を黒同
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