離の長いほどに、放庵の人間的慾望は果たされてゐるといふことに、観るものは気附かなければならない。放庵は未醒時代から、今に至るも私は理想主義者であると思ふ。芋銭が神仙境を描いたといふことは、さうしたことを好んで描いたといふことはどういふ理由に基づくであらうか。それは芋銭が自己の理想の顕現をそこに果たしたことになり、芋銭の人間味はそこに発見されるのである。放庵の人間味は、あの孔雀或はその他の花鳥類の細微の華麗さの中に彼の神仙境があるのである。石上人や樹下の仙人達に、真の放庵の楽しみは、放庵の理想境は、放庵の神仙境があるのではない。実は大根や人参や、アケビやザクロの転がつてゐるところに仙境があるのであつて、彼の人間味があるのである。彼の絵は華美の極点を衝くほどの人間味が、ぐんぐん出て来る筈である。その点既に仕事の境地は石崎光瑤と似てゐる。光瑤の花は見てその気持が悪くなるほどに美しく描かれてある作品ほどにこの作者の恐るべき人間的境地があるのである。放庵または[#「または」はママ]その境地に入つてゐると思はれ、また是非さう方向づけてすゝむべきであらうといふ結論にも達する。何故なら写実的な現実的な
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