た作品を見せてもらふことができる。然も数多く、そのことは観賞者の一つの幸福といはねばならない。「本朝道釈」の中の一人物に芋銭を加へてゐるのなどは、如何にも放庵の理解の面白さがでゝゐる。私が日本画家であつたら、「新本朝道釈」を描いて、芋銭の次に放庵を描くであらう。放庵そのものも確かにさうした人物の一人に加へても差支へはなからうし、またさうした人物と共通した「人生の味」を体験してゐるといへよう、芋銭の作品もこれはまた人生を呼吸ぬき、肩ぬき、肩透かし、うつちやりの連続で生き抜いたといふ感を抱かせる。彼の作品の妙味や値打は、その作品一つ一つに就いても言ふことができるがその作品の数多いといふ事も値打である。放庵は芋銭のやうにはいかないだらう。芋銭は自分の尻の穴まで解放した。野放図な人生の渡り方をした。画きなぐつたやうな作品が多いが、このなぐり画きに生命感が横溢してゐるから妙である。作品の数が多く、その数の多いといふことが少しもその作家の価値を下げないといふ境地に、何等かの形で到達してゐたわけである。しみつたれに一枚の絵に筆を加へて、そして出来上つた作品が大したものでもないといふ場合のことを考へて
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