つてゐるのではない。また作り話でもない。さる一流の堂々たる美術雑誌にさう批評されてゐたのである。私はこの神泉批評を読んだとき、思はず微苦笑を洩した。この批評家は決して神泉氏に対して皮肉な意味で言つてゐるのではない。大真面目に神泉氏の鯉、蓮の題材から狸への飛躍を祝福し、更に毛皮への躍進を求めてゐるのである。もし、本当に徳岡氏が毛皮を描いたらどんなことになるであらう。その批評家は、きつとかう激賞するにちがひない。『徳岡神泉氏の「毛皮」の作は近来稀な出来栄えでその画材も、従来に一新気軸を与へたものである。毛皮の眼の玉は、あたかも生けるが如くランランと輝いてゐる――』と、毛皮は毛皮らしく、毛皮の顔にはめられた硝子製の眼玉は、その硝子らしさに描くところが神泉氏の絵の行き方である。硝子らしさに描いた眼の玉を「生きるが如く」と批評するところが、フワンのフワンたるところであり、賞めつ放しの一般的批評の底でありフワンの味噌なのである。こゝでお可笑な例証を挙げてしまつたが、神泉フワンは、作家が題材的にも大いに今後飛躍して、毛皮まで描いてほしいといふ欲望をもつてゐるといふことをこゝでちよつと伝へておきたい。
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