いふこれはどういふことになるだらう。桂華も鶴の首位すつきりと曲げて描けない画家でもないであらう。この作者には「鳴九皐」や「独鶴逐浪」のやうな作品もある。鶴の首をすつきり曲げる技術にはこと欠かない筈である。しかしひとたび桂華が対象の真実的写意をありのまゝに描写するとき世間の一部ではそれを批難する。
 土牛、桂華二人展のときも、ある批評家が土牛の神品性を直ちに唱へたが、桂華の作品は常識的で新味工夫を欠くと批評した。これなども桂華にして見れば意外とし、また桂華論としては、批評する方がはるかに常識的であらう。
 桂華の写生態度を認めながら、「所謂鶴首としての概念」とは遠いと批評した人と好一対の常識批評なのである。何故なら批評家といふものは、実は作者との共同的な事業として、それこそ過去の概念と闘はなければならないのである。鶴の首の曲げ方がすつきりしてゐなかつたことが「過去の鶴首の概念」とは一致しなかつたかも知れないが、桂華の現実的な写生精神とは一致してゐたのである。そこに問題点がある。この批評家は桂華の味方ではなくて、過去の鶴首の概念の味方であつたわけである。
 作者がその写生精神に立脚して種々
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