の試み工夫をするといふことは、古い概念をうちこはして新しい自己の世界を樹立するといふ目的から為されてゐる場合が多い。さうしたとき批評家の軽忽な評言は作者の味方ではなくて過去の味方になるといふことで、作者に苦痛を与へることになる。例へ短かい評言であつても、その評言が当つてゐれば当つてゐるほど、また当らなければ当らぬほどに、作者の精神に各種の心理的な反映があるものである。土牛はシンボリズムを解さない彼はそのかはりに単純化といふ抽象的方法を知つてゐる。桂華はシンボリストであり、またそれに未練がたつぷりある。絵を支へ、骨を通ずるにはその方法に依ることが彼には楽なのである。しかし一方に写実への慾望が高いために、彼は二つの間にあつて動揺し悩むのである。何かで桂華が文章を書いてゐたが、それに曰く「去る十四日から脚気だと医者に云はれ、ずつと臥床して居ります。神経痛には温泉がいゝと云ひ、脚気にはよくないと云はれ、迷つてゐます――」とあつた。両方に利く温泉といふものはなかなかないものである。丁度桂華の象徴的方法と写実的方法とがぴつたりと結合するやうな方法がなかなか発見できないやうなものである。
然し兎も
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