こゝでもまた横拡がりに多数の観賞者を収容する。さうした一般性、通俗性は、これを理論嫌ひな日本画壇ではこれを理論化さず[#「理論化さず」はママ]、世間でいひ古されてゐる。一般性、通俗性といつた風にあつさり片づけたいであらうが、さうはいかない。土牛や桂華の作品がもつ、一般性や通俗性とは、全く理論的なものであり、また理論化されなければならないものである。芸術の究極目的は、作者が作画上でヱゴイストになることではない。むしろ自己の高度な芸術品をも、なほ世俗的な一般的な、通俗的な人々の、批評にも充分我慢のできる、つまり広範囲の批評に堪へ得るといふところにある。
 殊に桂華の場合は、その画の傾向や、これまでの足取りといふものを調べてみればすぐわかるが、現在の写実主義者は、その昔はどういふ傾向の絵を描いてゐたかといふことを考へてみたらいゝ、いま桂華の写実的方法が伴ふところの「通俗性」が取り上げられてゐるが、桂華のその昔の作品はおよそ「通俗性」とは縁遠い画風のもちぬしであつたのである。
 現在に於いては桂華は象徴主義者であつたのである。そして現在写実主義者になつたといふことは、この間にこの作者の人知れぬ
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