は土牛の絵は判り易いといふ意味で、猫も杓子も、何かしら一感想を述べる自由を与へられる。観賞者としては、そんな楽しいことはないのである。自分のもつてゐる批評が正しい、不正はこゝでは問題ではない。批評ができ、感想が述べられるといふことが、見るものにとつてはこれ以上の楽しみはないのである。三尺以上に接近したら引つぱたくぞ――といつた、近寄りがたい、もたせつぷりたつぷりの作品がまことに多いとき、土牛の単純化の作品は「奥様――土牛さんの柿を拝見してきましたが、たいへんよく熟れてをりましたよ――」と女中が感想を述べる自由も保有されてゐるのである。
桂華の場合はどうか、それは土牛とは反対にその作品の方法は、写実的意図を辿るところの通俗的なもの――単純化は、具体化と同一であり、また写実的方法は、一つの具体的方法なのである。俗に「絵が親切に描けてゐる――」といはれるのは、「具体的な説明」を作者が施すことに熱心なことが、観賞者に向つての親切さといふことになるのである。桂華の絵画勉強は、その写実的意図を何時の場合にも失はぬため、その制作の方法が何時も具体的で、一般に判り易い。さうした方法上の具体的形式が、
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