現在の人気の維持はでき得ない。とつくに没落してゐる筈である。
この二人は何れも、通俗性を出さうとするどころか、ひたむきな一生懸命なところがある。敢て土牛を老画生とし、桂華を画学生としたのはさうした画業精励のひたむきさを評して言つたのである。そしてこの二人は懸命になればなるほど画に通俗性がでゝくるのである。これは何もこの二人の罪ではないのであつて、この二人の辿つてゐる芸術の方法上から来たものといふべきである。
土牛と桂華とを組み合して、斯うして論じてゐるのは、この二人は最も対立的な立場にある人に拘はらず、画風といひ、方法といひ、この対蹠的な状態であるのに帰するところが同一なものがある。同一の悩みを、異つた方法で悩んでゐるといふ。良い見本のやうなものである土牛が何故製作の方法上の帰結として「通俗性」に立たせるか、それは土牛の絵の「単純化」の方法が辿る路筋なのである。土牛は形式を益々単純にしていつて、そこに内容的深さを盛らうとしてゐる。この形式の単純化が企てられるとき、観賞者にとつては、彼に益々判り易い絵をみせられるといふことになる。形式の単純化が横拡がりに、観賞者数を殖やしてゆく、はて
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