考へてみた場合に、全くの寡作主義者で市価が上り、人気が上つた作者があつたためしがない。あつたとしてもそれは特殊の場合であらう。商品としての作品はその市価をある動きのない状態にをくといふことだけでも、ある数量が必要とされるだらう。つまり同一作家の作品でも、庫から出したり引つこめたり絶えずしてをくだけの数が描かれてゐなければ、市価も人気も出るものではないだらう。奥村土牛氏の場合にも、展観の出品遅参組の随一ではあるが、とにかくかなり作品を間に合せてゐるし、遅筆寡作とはいへない。むしろ現在のところその製作スピードは緩急よろしきを得てゐる。
そして金島桂華氏の場合はどうか、氏の場合には土牛氏以上に商品的数量を産出する力はもつてゐるし、また金島氏の過去の仕事の系統をみても、さうした実力をもつてゐる。それを作家の芸術的立場に立つて批判すれば製作能力の旺盛なものがあるのである。しかし土牛、桂華、神泉といつた作家が沢山展観物も所謂単なる商品的なものも産出してゐるに拘はらず、現象的にはさうは見えない。世間的には寡作者のやうに見える。その点に一つの問題点も隠れてゐる。
こないだ開かれた土牛、桂華二人展ほ
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