に就いての難かしさを具備した作家だといふことができよう。奥村土牛氏の作品が、八千円しようが一万円しようがそのことは少しも驚ろくに足りない。しかしさればといつてこの思ひ切つた価値の良さが、全く問題にならないといふ意味ではない。もし人気が土牛氏の作品をそれほどに価格的に高めてゐるとすればその人気の問題も解明してをく必要があらう。それと同じやうに金島桂華氏の作品が六千円したといふ噂も、これまたこゝでは多少その人気の良さと価格とを接触させて論じてをくことも無意味ではないであらう。何故さうした人気と価格とを生じたか、「何、それはそれほどの金を出して買ふ人間がゐるといふことだけだ――」といつてしまへばそれまでの話である。
しかし世の中はさうも単純でもないやうである。世間では、土牛にせよ、桂華にせよ、その価格維持の一理由の中に、寡作であるからだともいはれてゐるが、殊に土牛の場合は、寡作な上に、絵の出来がなかなかおそいといふ理由も数へられてゐる。しかし、土牛の場合には現在ではその理由は当つてゐない。曾つてはさういふ時代もあつたに違ひない。しかし画家の描く作品を、経済的機構の中の、一つの商品と観察して
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