であつて当り前のことなのである。すでにそのことは作品以前のことである。つまり作品が現はれない前に於いて、既に人格的にさうなければならない筈のものである。
作品がすぐれてゐると評し、それはこの作者の人格が生んだものである――といふ評に至つては、後の人格のせいにすることはオマケにもならない。蛇足にすぎない作品の質は、既に作者の人格がその決定権をもつてゐると思つてよろしい良い作品ができてゐるのは、良い人柄がそれをさせたと考へてよい。技術がどうの、出来がどうのと論ずる場合はまた別な観点に立たなければならない。出来上つた作者に対しては、その作者の新しい方向に対しての、過程的なものとして批評する。その場合にも、この一応完成された作者の画風上の本質はあくまで認めた上での、俗にいふところの『注文』を批評家は為せばそれで足りる。もう一つの場合、新進的な、或は画学生的な作者に対しては、批評家はその指導的位置を文章の上で果すべきだらう。今我々は菊池契月氏といふ、既に出来上つた作家に対して、いかなる注文をなしたらいゝか、作品年表をみてもわかるやうに、この作家は、(旧姓細野契月)時代から、如何に活動的な作家で
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