呼ばれる人でも、その才能を危かしい状態で、磨滅させてゐる人もある。契月氏はよく自己の才能といふものを知つてゐて、その才能の機能にもさまざまの種類があり、自分はかういふ才能のはたらきの仕方をさせることが、自己の立場だといふ自覚がある。今世間の一部では契月の武者絵は、何となく弱い感じだといふ批評もある。
成程さういはれてみれば『清水』でも『八幡太郎』にしても、なにかしら弱々しい武者を描いてゐる。その弱さの感じから言へば、鎧を着てゐたり、弓をもつてゐたりしてゐても、まるで非戦闘員のやうな弱々しい。むしろ女性的な武者を描いてゐる。だから毛脛だらけの雲助のやうな美術記者や、美術批評家などには気に入る筈がない。しかし契月の武者の『薄弱さ』こそ批評の中心的なのである。
何も契月が弱々しい武者より描けないわけはない筈だ。また過去には『垓下別離』のやうな髯ツラの武人も描いてゐる。武者絵の場合その人物の手が、たつたいま血を洗ひ落してきたといつた描き方許りを指して、武者絵の定石的なものだといふ解釈の仕方のなかには、少しも画論的意味は成り立たないのである。契月はその大体ならば、血で洗れた手を描くことを常識
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