ようとして』いろいろと変革を生みだしたのだと言はれてゐる。大体に日本画のやうに、技術を尊重しなければ大成しがたい芸術は、従つて形式勉強の長さが、その独創性を育くむ場合よりも習気に溺れてしまふといふ危険性の場合が多い、そして画家の惰性、習慣性を救ふために、新しい形式を持ちだした。しかしそのことで現在の南画の状態をみてもわかるやうに、南画は救済されたであらうか、南画はその形式主義の故に、没落の道筋をたどり、その救ひの方法としてもつてきたものがこれまた形式主義的方法以外のものではなかつたために時代性を喪ひ、下降線を示してゐるのである。大智氏のいふごとく、南画はその人間ができなければ、この形式の自由な馳駆といふものは不可能であらう。
 習気に堕した南画形式の作家は多いが、この南画形式を、完璧な形式として、自由に扱ふ作家はまことに少い。
 大智氏の見解では、形式はそのまゝであつても構はない、ただその使ひ方一つにある。新しい形式を編み出す必要があるかどうかわからない――といつてゐる。この大智氏の言葉を単純に丸呑みにはできない。もしこれを丸呑みにして、古い形式がうんざりするほど画壇に復活してきたら、
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