して展観に出した方が得らしい。よしこの二羽の鶏がおそろしく下手に描かれてゐても、画面に現はれた限りで、どつちの鶏かが、どつちの鶏よりいくぶん強くは描かれてゐるに違ひない。この二羽の鶏が丁度毛変りの季節にぶつかつてゐて、闘つたのではなく、身ぶるひしただけで、羽毛があたりに飛散つただけでも、脱羽を散らしてあるだけで、観者に闘ふ鶏だと思ひこましてしまふのである、画材上の迫力とは『雪隠の構へ』のことをいふのであらう。大智氏の作品は、さうした硬さや迫力を窺つたものではない。殆んど横線と思はれる線の使用が少く、作品に依つては殆んど斜線ばかりで仕上げてあるほどに肩のとれた、撫で肩の作品が多い。踏ん張りだけを迫力だと考へてゐる現画壇にとつては、大智氏の作品はヒューマニズムの濃い行き方として、当然形態上の柔らかさ、弱さが一つの方法であり、武器であるといふことにまで考へが及ばないらしい。
 南画形式は人間が出来なければ、形式を使ひこなすといふことが殆んど不可能である。南画の形式のさまざまの変革は対象の真を描かうとしての必然的な形式として生れたものであるが、他にはこの南画形式の種類の多さは『画工の習気を避け
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