般的批評は当てはまらない。こゝでは風景画家を、人物画家より下位において言つてゐるのではない。こゝでいつてゐるのは、人物画には人物画としての批評的方法が必要だといふ意味なのである。しかも世間には武者絵作者も加へて、人物画だけを純粋に画材として取扱つてゐる作家は少ないし、その中でもまた、美人画ばかり描いてゐるといふ作家は少ない。画家の中でもこの美人画家は特殊的位置を占めてゐると同じやうに、批評をするといふ場合にも、批評に特殊的方法を必要とする。しかも上村松園氏の場合には現代美人を描かずして、過去の美人を描いてゐるといふ。題材上の時間的距離は一層批評方法の困難さを伴ふのである。描いてゐる画家そのものは、生きた現代の人間であつて、その描くところのものは、現代から離れた享保時代の美人であつたとしたならば、批評家なるもの、多少の戸まどひをしないわけにはいくまい。殊に作品の持ち味といふものは作者とは離れて持ち味のはつきり表現されるものがあるが、それとは別に作者によく内容を聞かされて、始めて納得のゆくものもある。説明されてみて、一層その持ち味を理解されるものもある。それといふのも一つは直接に絵画から受ける感得、後者は少しでも作者の内部的心理を第三者が辿つて始めて画面からの感得を濃くするといふ場合である。いま上村松園氏の作品の持ち味を理解するには、何れを採つたらよいであらうか。
絵だけを見て、そこから受けとられるものだけを受けとつてゐてよいか、それとももつと作者のその作品を描いた意図の説明を求めた方がより作品観賞上で有効であるか、そのどつちであらうか、現在の上村松園氏の仕事の状態からみるときは、松園氏の作品の持ち味は、その画面に現はれたゞけ――の感得だけで決して観賞者として不親切ではない。むしろもし作者に向つて、最近の作品の一つを捉へて、その作意や計画を尋ねたとしたならば、松園氏自身が困惑してしまふであらうと思ふ。
松園氏の作品に対して、批評家が心の用意が必要だといふ意味は、松園氏が自分自身で描いてゐて、説明に困惑する状態の中から、作者にも尋ねることなしにして孤立し、独立した批評をうちたてなければならないからである。つまり単に批評程度の考へでは、松園氏の作品論はできない。批評に塩を利かした方法を採らなければいけないといふ理由が成り立つ、塩とはピリゝとした方法のことをいふのである。
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