はその石であり、周囲の喧騒のもみ合ひの中で、超然としてゐたことが、却つてこの作家を社会的表面に浮かびだすといふ結果にさせたと言ふことができるだらう。こゝに一人の超党派的人物がゐたことを、画壇ジャナリズムは発見したのである。土牛が超党的であつたことが、彼を担ぎあげるにもつとも適当な理由となつたのである。どの派にも与《く》みせず偏しないといふ超然主義は、その画風の上にもはつきり現はれてゐるが、その人柄の上にも、態度の上にも現はれてゐる。しかもその表面的な温和の底には、梶田半古仕込みの峻厳なものが隠されてゐる。彼は自分で胴上げをされてゐるといふことを自覚してゐるが、その胴上げをされることを拒まない。しかし胴上げをされてゐる方よりも、胴上げをする方がやがて疲れてしまふことを、賢明な土牛は知らない筈はないのである。
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上村松園論


 いまここに上村松園氏の作品に対して、筆をすゝめてゆかうとする場合に、批評者は一つの心の用意を必要とする。何故なら、松園女史の世にも美しく麗はしい作品に対して、いつたい何をしやべらうとするのであるか、まづその点からも、上村松園氏の作品は、「批評なし――」で結構存在するのである、他からとやかく言はれなくても、作品の値打の保証されてゐる今日、いまこゝで何をか言はんや――なのである、批評家の心の用意とは、そこの点を言つたものである。批評を必要としない作品に対して、それを敢て行はうとするときは、心の用意が必要ではあるまいか、松園氏の作品に対しては、然し展観ごとに諸々で批評もされてゐるし、いまではその批評も画一的なもので、常識的なものである。一般の批評家の松園論が、常識的なお座成りなものに堕してゐるといふこともまた然し理由がないことではない。
 これらの批評家達は、松園氏の作品をなまじつか批評をしようとするからそこに常識的な答へより出て来ないのである。もしその批評家が、単に「批評」といつた作品の値打を評する程度のところに止めておかないで、「批評に塩を利かした方法」といふものを採つたなら、少しは松園氏の作品の本質に触れることができようといふものである。風景とかその他の題材的な作家の作品であれば、一応一般的な批評方法もあてはめることができる。しかし、人物画家殊に上村松園氏のやうな美人画家に対しては、風景並の一
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