腰元弥生の心理状態を、開放するために明るい感じを出したといふ計画性は、それはもの言はぬ作中人物に対する伊東氏の愛情であると同時に、その絵を観る観者そのものを、画面効果上の圧迫感から開放するといふ観る者に対する愛情でもある。画面の圧迫感が、芸術的効果である――などと考へこんで、妙に重つ苦しい絵を描いて、それで製作の目的足れりとしてゐる芸術家などは、芸術家としては下の下であらう、圧迫感とか強調感とかいふものは、一つの手段として尊重されるべきで、それが目的の全部ではない、伊東氏が「鏡獅子」に於いて妖獣のもつ圧迫感を黒い隈によつて表現し、その圧迫感に捉へられてゐる、可憐な女性を明るいボカシによつて開放してゐるといふことは、単にこれは作画技術上の問題にとどまらず、芸術家のヒューマニティの問題として取りあげられてよい、芸術は苦悩の表現であり、それの解決であるといふ伊東氏の人間性を、隈と明るさとの関係に於いて認めないわけにはいかない。
「鏡獅子」の表現に就いて、その創作談の中で、是非問題としなければならない、芸術の表現法に就いての氏の有益な数語がある、それは「鏡獅子」でもさうであるが、形態の誇張に関する、伊東深水氏の考へ方の正統性である。
日本画の表現は古来ずいぶん思ひきつて突飛なものがある。この表現方法のみをみると、いかにも表現の奔放自由を作者が認めてゐるかのやうに受けとれる、伊東深水氏は鏡獅子の作中の女の獅子頭をもつた右手を思ひきりあげて描いてゐることに就いて「女の右手があんな頭上に挙る筈がないのですが、あゝしなければ、鬼気にひかれまいとしてゐる女の気持ちが出せないものでした」と言ひ、更にかう続けてゐる「裾としてもさうですが、然かさやうに翔るわけもないのにあれ程にしたのは、」「要するに静止した画面に、リズミカルな動感を盛らうが為めの手段に外ならないのです――」といつてゐる、伊東氏のこの最後の言葉こそ、けだし至言といふべきだらう、伊東氏は日本画の本質、ことに表現の自由奔放が絶対的なものでなく、ただ静的芸術としての日本画に於いては、その表現の自由性の可能がなければ、静的なものに極度に動的な表現を与へることができないものだ――といふことを言つてゐるのである。ただ徒に奇矯をてらつて袖や裾を翔がへさしたものではなく、静的なものを動的なものに転換するには、さうした形態がどうしても必要だ
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