て約束された描法上の諸形式があまりに数多くありすぎる、つまり筆を下ろした初から、抽象的、象徴的方法ができてゐる、思索をしなくとも、ただ描法を選みさへすればいゝといふことは、現代の日本画の半面の幸福と、半面の不幸とを物語るものであらう。
 郷倉氏がそこに何等かの新しい創造方法を産み出すことを計画してゐるとすれば、強い写実的雰囲気を出すための手段としての、象徴的方法それでなければならない、しかもその象徴的方法とは方法以外のなにものでもなくて、方法以上に一歩もでるものではない、観る者に象徴的雰囲気を与へては、その目的に反する、郷倉氏は最近その創作方法上の一つの解決の鍵を発見したかのやうである、『山の秋』『麓の雪』『山の夜』等を一転機として、氏の仕事が『主題芸術』に入つたといふことこれである、凡俗の画家は、一生涯構図をつくることで終る、作家が最大の力量を発揮できる世界は、この構図主義から開放され、『主題芸術』の世界に入ることである。このテーマ芸術とは、画面の構成を意味あり気にしたり、物語りめいた画をつくることとは違ふ、むしろもつと単純なものだ、それは画面に時間的空間的な系列を具体的に示すといふ事業のことである、画面の叙述性、叙事性が生かされたものが主題芸術なのである。それは必ずしも社会的政治的テーマとは限らぬ、それは山の夜の静動の世界でも、雪に埋没された鳥の生活でも構はぬ、画面に時間的展開が無限の叙述をもつて表現されてゐれば、立派なテーマ芸術と言へる、郷倉氏はその強烈な空想性、想像性を現実的拠点、現実的基礎から引き出すといふ方法をわきまへてゐる作家である、そこには悟性の強い時代的な活動があり、さうした客観性が新しい創作方法を産み出し、新しい主題芸術に突入することを可能とするのであらう(日本画の象徴性及び主体芸術に就いては、折をみて評論の機会を得たい――筆者)
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伊東深水論

 伊東深水氏の生ひ立ちとか、少年時代の家庭的な並々ならぬ苦労とか、或は氏を立身伝中の人として語るといふことに、この人位材料に不足しない人はゐない、しかしこゝでは伊東氏の苦労話をすることをやめよう、何故なら、もし少年時代の不遇や不幸がすぐれた作家になることができるといふのであれば、まづ絵の勉強をする前に、苦労を先にするだらうからである。環境が人間をつくる
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