の、鳥獣もので特別な姿態に跳躍させてゐる、俗にいふ童話的雰囲気のものがそれである、これらのものは飄逸性に於て面白いが、この種の童話的解釈は、画家そのものの現実からの逸脱であつて、もつとも危険な現象である、観る者またその童画的な作から、いつまでも時間的に現実性を味得することができない、批評家たちは『村童は素朴なユーモラスな気分ある趣き深いもの――』などと氏のものを批評してゐる、郷倉氏の童話的作品に対して支持的態度を見せてゐるがこれは批評家のお世辞以外のなにものでもない。
 しかし最近では氏のこの童話性の危険は、漸次去つてゐるやうである、『山の秋』ことに『山の夜』に至つては、そこに跳躍する小動物は、既に往年の童話的小動物ではない、それは山の夜に生活するもの――としてあるふてぶてしい存在にさへ、写実的に描きあげられてゐるのである。『山の夜』は現実的な作品であつても、決して世間でいふほど神秘的な作品童画的な作品ではないのである、また郷倉氏の独特の抒情味といふものも、世間では認めてゐるが、抒情性は小品ものでは承認されても、氏の大作ものに対しては、むしろ抒情味の少ない、冷酷な位な悟性の透徹した作品をみせてほしいといふ欲望をもつ、評者金井紫雲氏は、郷倉氏の手法上の一の創作的技巧――とは認めたが、その正体を語らなかつたが、私は郷倉氏のこの創作的技巧を指して、新しい象徴的手法であると、はつきりと規定することができる、何故ならば作家の用ひる芸術的な方法は、必然的な手段ばかりでなく、時には偶然的な方法さへ認めなければならない立場にたたされる、それといふのも、対象の真を描くためには、芸術家は『目的のためには手段を選ばない――』態度であるべきだからである。
 郷倉氏が気分の上の象徴主義者ではなく、むしろ気分の上では完全なリアリストであつて、ただ手段の上で象徴的方法をとるといふことであつたならば郷倉氏の傾向としてむしろ喜ぶべきことだと考へる、日本画が将来に発展するか、滅亡するかは、日本画の従来の特質である象徴性に、新しい時代的解釈を加へることができるかどうかの如何に懸つてゐる、南画の危機は、その内容の危機でもあるが、むしろ南画そのものの『象徴的方法』の危機に当面してゐるやうに、日本絵画伝統の深さは、一本の竹、一本の松、を描くにも、作者が少しも現実的な思索をしなくても、形だけは描けるといふ前もつ
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