主義者でありながら、象徴的な画を描いてきてゐるといふことは興味ふかいものがある、金井紫雲氏の言ふやうに『象徴的気分』はいけないのであつて、作画上で象徴的解決にもつてゆくことは一向差支へないのである、気分では方法が生れないのである、郷倉氏の作画方法は、あくまでリアリズムであつて、そこから引き出された答が象徴主義者なのである、氏がシンボリズムの様々の試みをしてゐることは過去の仕事ぶりをみてもわかる。
第八回日本美術院『地上の春』は林の中の樹木の群が歓喜の状態で描かれてゐる。硬い目に描かれてゐる木の枝に、配するに柔らかい花と、木の芽があり、地上の湿潤のいい春の気配を感じさせる作である、この描法の硬さは単純な企てから出発した硬さではない、強い写実力として、その後の行き方の基本的なものを示してゐる、当時の画家たちがどんな仕事をしてゐたかといふことを回顧することも無意味ではあるまい、当時は小林古径の『罌粟』や、藤井達吉の『山芍薬』のリリシズム、速水御舟の『菊』殊に速水の『渓泉二図』の豪放のうちに強い写実味を加へた作や橋本静水の『秋』はけんらんたる絵巻を展開し何れの作家もすぐれた写実的風潮を、その作画の基本的なものとしてゐたのである。
郷倉氏はこれらの写実的風潮の中を潜つてきた人である、したがつて作風の上でもその変化は、独特の抵抗力をもつてゐる、計画的な画面の硬さや、陰影の明確さは、何れもその後の象徴的方法の前奏曲的なもので、下仕事として現はれたものと思はれる。第十二回の『筍』や『童児相撲』などはその極端な現はれであつた、その間に特長的な仕事として第十回に『草辺二題』がある、この絵は『蜂の巣』と『小鳥の水浴び』とを描いたもので、その細密描写は、一見写実的方法には見えるがさうではなく、一種の象徴的手段であると見ることが正しいであらう。
洋画家アンリー・ルッソーが徹底的写実を追求して行つて、却つて象徴的手段に行き着いたのと、郷倉氏の『草辺二題』はその軌を一にするものがある。郷倉氏のこれまでの作品の流れをみると、氏は硬軟両様の方法で、一つの対照的方法を産みださうとして、両側から攻めてきてゐるのだといふ感がふかい、ただこゝに一つ危険が伴つてゐた、それは郷倉氏の作風の中の、一種の『童画的』な方法である、むしろ童画的精神と呼ぶべきものがチラチラと作品の傾向の中に挟まつてきた、氏の童子も
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