由に発揮し、制作するといふ自由が氏の最近に訪れたやうである。
『山の夜』は問題作であるのに拘はらず、案外世間では慌たゞしく、この作品を見遁したといふ感がある、批評家が、一つの予見性を認めるとすれば、氏の『山の夜』から引きだされる将来の仕事は充分予見できるのである。『麓の雪』を金井紫雲氏が評して『此の雪の描写は、象徴的気分はないにしても、手法の上に一の創作的技巧を見ることができる――』といつてゐた、日本画の世界では、象徴的気分とか象徴的方法とかいふものを、これまで創作的技巧と呼んでゐたのではなかつたらうか――、こゝで金井紫雲氏は、郷倉氏の絵を評して、『象徴的気分』と『創作的技巧』といふものをはつきりと区別して論じてゐるし、郷倉氏の『麓の雪』に象徴的気分がなくて、そのかはりに一つの創作技巧をみいだしたといつてゐるのである、金井氏の評は、たしかに郷倉氏に対して、一応当つたことを言つてゐる、しかしまた象徴的気分に対して未練がましいものを評者から感ずるし、郷倉氏の所謂一つの創作技術なるものの正体を解かず、舌足らずの感がある。
 郷倉氏の作品に対する世間的評価の仕方には、何かしら『舌足らず』のものがあるが、実はこれは郷倉氏個人の作品批評だけの問題にとどまらない、日本画の上で何かしら新しい前衛的な試みをしてゐる作家に対しての、世間的評価は、何れもみなこの『舌足らず』そのものを証明してゐる、金井氏のいふやうに郷倉氏は、その作風の上で、たしかに象徴的気分のない『創作的技巧』を示したことは事実である、そして次の仕事『山の夜』では、それが発展した作品として、一層象徴的気分を排除し、創作的技巧を発揮したのである。それは『現実主義者をして郷倉氏――』がその創作上で面目躍如を始めたからである。
 現実主義者は、象徴的気分を喜ぶはずがない、日本画壇には写実主義者や、象徴主義者はまことに多いが、郷倉氏のやうなタイプの現実主義者は至つて少ないのである。
 ただこゝに一つの問題が残る、それは現実主義者が作画上で、象徴的方法を用ひてはいけないか、あるひは用ひることが不可能であるかといふ問題である、こゝではつきりと言へることは、象徴的方法を完全に自己のものとして使ひこなすことのできるのは、現実主義だけであるといふことである。始めつからの象徴主義者は、象徴的方法を用ひることができない。
 しかも郷倉氏は現実
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